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脱学校的人間(新編集版)〈70〉

 「経済的な合理性を動機づけにして、子どもたちを効率のよい学習に導き入れようとする大人たちがいる、彼らは『勉強するとこういう《いいこと》がある』という言い方で、子どもたちの功利心に訴えかけ誘導しようとする、そういう大人も中にはいるのだというより、今ではどの教師たちも親たちも、ほとんどがそういう説明に逃げてしまう」(※1)と、内田樹は教育をめぐる現状を嘆いている。
 だが教育に、そもそもそのような「経済合理性以外の何がある」というのだろうか?教育とはそもそもそういった功利性こそ「売り」なのであり、その効率的な有益性を将来において約束することにより、「教育」という社会的で現実的な活動の体系のその中へと、大量の(というか「ほとんど全て」の)人間を一括して動員することに成功してきたのではなかっただろうか。実際にその約束が履行されてきたのかどうだかは別の話だとしても。

 経済的に合理性のある有益な結果が、社会的諸個人個々の将来においてあらかじめ約束されているということが、人々を主体的に教育へと向かわせる動機づけとして成立しているのは、事実としてもはや何らの疑いを差し挟む余地はないだろう。人は実際にその約束を信用し、教育という「資産運用システム」に、「自らの将来を信託投資している」わけである。「自分自身にとって何かいいことが、一定の利潤として将来的に間違いなく回収できるはずだろう」と無邪気なまでに信じきって。
 そのような人々にとっては、「今この現在」というものはおそらくただ単に、「約束された将来の結果からさかのぼって計画されている、その過程の反復期間」としてのみあるようなものなのだ。そしてそのような計画上の過程としてのみ成立している「今この現在」とは、「計画的な反復の過程であるがゆえに、そこで何が起こるのかたいがいのことは予測できるし、むしろたいがいのことはすでに予定されていることなのだというように考え、それに向けてあらゆることをあらかじめ準備しておくことができる」というようなものに他ならないのである。
 ゆえにその過程の中における人々の現実とは、「計画された結果に向かうプロセスとして、時系列的に予定されている予測可能なイベント」として捉えられているというわけなのだ。そしてその予測の通りに、そのつどの現在をこなしていくことの結果が、「約束された将来の実現につながっている」のだというように、人々には信じられているわけであり、そのように予測される結果に向かって、現実の隅々にわたりすでに予定済みの現在という計画上の過程が、時系列的・段階的に「計画通りに進展していく」ものとして、あるいは「進展していくべき」ものとして、広く一般に考えられ信用され受け入れられているわけなのである。

 思うにある種の教育者たちはどうやら、自らの携わる事業である当の教育をどこかしら神聖視して捉えており、何とかして自分自身が現に関わる教育から「経済的合理性以外の価値」を見出そうとしているようである。
 しかし一方で、そもそも「教育とは、本来的に商品となる性質のものである」(※2)と山本哲士は言っている。そしてそのような「教育商品」とは、ただ単に「その内容が、教育を受ける者にとって有用有益なものとなっている」ということばかりではない。何よりこの商品の「約款」にはまず、教育を受ける者が実際に教育を受けたことによってもたらされるであろうその結果が、実際に教育を受けるその事前においてすでに、あらかじめ将来的に有用な利益をもたらすものだとして、契約が明記されているのである。そのような「契約と保証」の下で、そのつど実際に施されるところとなる「有用な教育」なるものが、その有用有益性という「計画された意味においてひとまとめにされた」(※3)商品として、実際に生産され売りに出されているわけである。
 ところでそのような「教育商品」とは、「ある一定期間、元本をその所有者が自由に扱うことのできないものとして信用機関に供託し、その元本を信用機関が運用することによって生じた利潤を、将来的に元本所有者が受け取ることができる」というような、いわば「金融商品」のようなものであるというように考えることができよう。
 たとえばそれこそ「学歴」などというものは、まさしくそのような「計画された意図にもとづいて、一定期間の自由の喪失と、それ以外の将来の喪失とを原資として教育という信託商品に投資し、一定期間を経た後すなわち卒業時において決済した上で、生じたその利益を回収する金融商品」なのだと言える。つまりここで言われる「計画された意図」とは、その教育を受ける者が結果として享受する「その教育の結果として約束された将来」つまりその計画の意図に釣り合うグレードの職業に就くことだという以外のものではない。そこで「学歴」という教育商品の、その運用過程において「投資元本の所有者すなわち生徒たち」は、彼らが一定期間の学業過程を卒業したあかつきに、「選ばれて世界の裕福な人々の仲間入りをすることを目指して学校教育を受け」(※4)ているわけである。彼らがその予定されていた通りの結果に辿り着きさえすれば、社会的に選ばれた者としての利益を回収し、社会的な権能という富を享受することができるものだと、彼らはその過程に入る前から予め約束されている。そしてその約束を信用することによってはじめて、彼ら投資元本の所有者すなわち学生は、一定期間の自由の喪失またはそれ以外の将来の喪失を、喜んで引き換えにすることができるというわけである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 内田樹「下流志向」
※2 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」
※3 イリッチ「脱学校の社会」
※4 イリッチ「脱学校の社会」


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