不十分な世界の私―哲学断章―〔29〕

 『許し』が人と人との間に生じた出来事を、その行為によって出来事を生じさせたその人自身には還元せず、あくまでも「人と人との間に生じた出来事」として終わらせ、その人をその人自身の行為から解放する。
 しかし、もしそうだとしたら、人は「何をやっても許される」ことになるのだろうか?人が出来事を終わらせるためには、「許すしかない」のだろうか?
 「…許しの反対物どころか、むしろ許しの代替物となっているのが罰である…」(※1)と、アレントは言っている。なぜなら「…許しと罰は、干渉がなければ際限なく続くなにかを終わらせようとする点で共通しているから…」(※2)だ、と。
 しかし『許し』は、「許した後の関係」を、その許しという行為自体が規定し拘束するということがない(つまり『許し』とは、すなわち関係からの解放である)のに対して、『罰』は、それ自体が罰することの意味の規定であり、そのように規定することによって、「罰する対象との新しい関係をはじめてしまっている」のだ、と言えるのではないだろうか?
 そこでその「罰する関係を終わらせるもの」とは、一体何になるのか?ということになると、それはやはり『許し』であるより他にはない、と言えるのではないだろうか?その意味で言えば、『罰』は必ずしも「許しの代替物」としては、十分な役割を果たしえないことになるのではないだろうか?
 一方で、「…許しは復讐の対極に立つ…」(※3)というようにアレントは言う。しかし、だからといってそれらが全く異なっているとは言えないのではないか。むしろ「対極に立つからこそ、互いに似通っている」のではないか。あたかも、イエスとユダのように。
 人にとって未来が予見できないものであるように、『許し』もまた予見できない行為なのだ、とアレントは言う(※4)。「『許し』が予見できない」というのは、「『罪』が予見できない」ということでもある。言うまでもなく、罪は行為の結果である。そして許しは、罪がなければ存在しえない。つまり「罪に先行して、許しが存在する」ということがなく、「許しが、それ自体として存在する」ということもない。許しは常に「罪に対する関係」としてのみ存在し、「罪に対する反応」としてのみ成立する。ましてや「許しが存在するために、罪が要求される」ということはないし、むしろそれはけっして「許されえないこと」なのである。

 話を『復讐』に戻す。アレントは『復讐』を次のように定義づけている。
「…復讐というのは、最初の罪にたいする反活動(リ・アクティング)の形で行なわれる活動である。…」(※5)
 復讐も許しと同様に「罪への反応」として成立する。そして、復讐の存在を要求するのはやはり、許しと同様に罪の存在である。復讐は「罪がなければ行われない活動」として、むしろ罪に従属している。この点でも実は、復讐と許しは対極どころか大変に似通っているのである。
 ところで、復讐の活動を支える原動力は何かといえば、それは言うまでもなく「憎しみ」であると言える。憎しみは、復讐を正当化する役割を担っていると言える。逆に「憎しみが正当性を持つ」としたらそれは、「罪は復讐されるべきものである」として、いわゆる応報感情において復讐が正当化されているからである。憎しみもまた、罪がなければけっして芽生えない。罪のない者を憎む者がいるとしても、彼にとっては「その対象に罪がない」ということさえもが罪になる、それさえもが彼の「憎悪の対象となる」のだ。
 復讐が「関心を持っている」のは、「罪と見なされるべき最初の出来事だけ」である。復讐の存在は、その最初の出来事が罪であるという事実によってのみ支えられ、その活動の過程においては常に、その最初の出来事が絶えず呼び起こされ、反復されている。復讐が正当性を持つとすれば、それは最初の出来事が罪であるからであって、その意味で、もしたとえその復讐が成就したとしても、それによって最初の出来事が「罪であることの『意味』を終える」のであったら、もはやそれで「復讐という活動の正当性」も同時に失われてしまうことになる。復讐が「復讐という活動」として正当性をもって成立するためには、罪は罪として存在し続けなければならない。罪は「罪とされる出来事」から解放されてはならない。だから復讐は、「それ自身が罪と一体化しなければ存在し続けることができない」のである。そこで、罪であるところの最初の出来事は、復讐によって殺されることなく、むしろその「成就された復讐の中で生き続ける」ことになる。復讐は、たとえそれが達成されようとも、「自らの内に罪の『意味』を抱え続ける」ことになる。だから復讐においては、「…人は最初の罪の帰結に終止符を打つどころか(中略)拘束されたまま…」(※6)で、罪と共に生き続けることになるのである。

 繰り返すと、復讐の対象となるのはあくまでも「最初の罪=出来事」であり、それが復讐という活動にとっての「出来事の全て」である。復讐にとって最初の罪=出来事は、出来事の全てとして「全ての現実を覆い尽くしている」のだ。だから、「現実そのものが終わる」のでない限り、復讐にとっては、この出来事=罪も、それに対する復讐も、けっして終わることがない。いや、自らが正当性を持った存在であるという『意味』を終わらせないでいるためには、復讐はそれを自ら終わらせえない。ゆえに、その対象=罪への関心も、途切れることはけっしてない。『許し』が、その行為によって対象となる出来事を終わらせるつもりがそもそもない『復讐』と、「対極的に異なる」部分があるのだとすれば、まさにこの活動としての「志向」においてであるだろう。
 そして、復讐は、その対象となる「最初の罪」を延々と追い続けるがゆえに、むしろそれによって「新しい罪が見逃されてしまう」ということにもなる。あるいは、最初の罪が新しい罪を「塗り変えてしまう」ことにもなる。これは、復讐という活動が自ら抱え込んでしまう罪であると言える。
 復讐において、『罪』とは全てその「最初の罪のこと」なのであり、それが「罪そのもの」であり、「罪の全て」なのだ。実際には、最初の罪と新しい罪は「全く異なる罪」なのだが、「最初の罪」のことしか目に入らない復讐にはもはや、それを見分けることさえできない。その意味で言えば『復讐』は、「最初の罪でさえ、罪=出来事として扱うことができていない」ということになる。では一体、彼は「何」を追いかけてここまで来たというのだろうか?それすらもわかっていないということが、まさしく「彼自身の罪」なのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
(※1)〜(※3) アレント「人間の条件」第五章33 志水速雄訳
(※4) アレント「人間の条件」第五章33
(※5)〜(※6) アレント「人間の条件」第五章33 志水速雄訳

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