不十分な世界の私―哲学断章―〔24〕
もし『可能性』とは、それが現実に実現されるべきものであるとすれば、たとえば人が「自分の人生には無限の可能性がある」と考えるとき、彼の可能性は「無限に実現しうるもの」として考えられているからこそ、そのように言いうるのではないか?しかしもし何か一つでも、彼の可能性が現実に実現されてしまっていたとしたら、彼にとって実際に可能だったこととは、その現実に実現された可能性に「限定されてしまう」のではないだろうか?もし「それ以外の可能性」が、それでもなお彼にとって可能性であり続けるためには、現実に実現された可能性と同様に、それ以外の可能性もまた、彼において実際に可能であることとして、現実に実現され続けなければならなくなるのではないか?もし、それが「できない」としたら、現実に実現された可能性と、それ以外の可能性は、実際には違うものだった、ということになってしまうのではないか?あるいは、それ以外の可能性については、もはやそれが「可能性ではなかった可能性」をさえ考えられてしまうような事態になる「可能性」も、出てくるかもしれないのではないだろうか?
もちろん彼は、自分の無限の可能性を、無限に実現し続ける必要はない。また彼は、別に「自分の現実は無限だ」などと言っているわけではない。彼は単に、「一般的に可能性があることについては、自分においてもまた可能であるはずだ」と言っているだけのことである。また、「誰にもありうることは、自分にもありうるはずだ」と言っているだけなのだ。『可能性』に要求されているのは、まさしくそのような『一般性』である。それこそが『可能性』について、「一般に考えられていること」なのである。
一方で『現実性』とは、「自分自身の現実として特定されているもの」である。つまり、彼の可能性が実現されるというのは、一般的な可能性を、彼自身において「特定する」ことだと言えるわけである。
人はまず、何が自分の現実において可能なのかと意識するのだろうか?
あらためて言うとそれは、「すでに実現された可能性」についてだ、と言える。つまり、「誰かの現実において実現された可能性」を、人は「自分の現実においてもまた可能であるのか?」ということについて意識するのだ。
可能性は、「誰かの現実においてすでにそうなっている」から、誰にでも、つまり自分においても、「そうなりうるものとして見出される」ものだ、と言える。しかし、「自分の現実においてはまだそうなっていない」からこそ、自分自身にとってそれは、「まだ可能性としてある」のだ、と言えるものとなる。
また、可能性は、それを「持っているだけ」であれば、それはただ「そうなりうるだけ」という話であって、現実にはまだ何にもなっていない、つまり何も実現されていないし、何も現実にはなっていない、と言える。「自分には無限の可能性がある」というとき、「自分=私は、何一つ実現させていない」限りで、人はそのように言うことができるところとなる。
〈つづく〉