可能なるコモンウェルス〈45〉
人間の「流動性=遊動性」をバックグラウンドとして、歴史的に見ても「特異な」政治体として成立・発展していったのが、紀元前8〜7世紀の古代イオニアに興ったとされる「イソノミア=無支配」であった、と柄谷行人は考察する(※1)。
イオニアは、今のトルコにあたる「小アジア」と呼ばれる地域の西海岸一帯にあり、アテネなどのあるギリシャ本土とは、エーゲ海を挟んでちょうど対岸の位置関係となる。そのように、海路交通の利便性という点でも好条件に恵まれたイオニアの地には、ギリシャ本土をはじめとした周辺各地から、実に多くの移民たちが流れ込んできていたのであった。人々は、それぞれ本国で培ってきた多種多様な技術や文化をその地に持ち込み、そこで互いに自在な仕方で混ざり合うことで、さらに新たな技術・文化へと進化させていき、当時として目覚ましいほどの発展を遂げていったわけである。
そのようにさまざまな土地・共同体を出自とする、多種多様な植民者が流れ込んできたためもあってか、「イオニアでは最初から『個人』が存在した」(※2)ものと見てとることができるのだと、柄谷はその土地柄の特異性について読み解いている。見方を変えれば要するに、「お前は何処の共同体の如何なる階級に帰属する何者であるのか?」などと、人毎にいちいち問うてはいられないほど、夥しく多種多様な人間たちが集う社会の中にあって、もはや何であれ人々は「最初から個人であるより他なかった」のだ、というわけなのであろう。
加えて柄谷によれば、何よりそのように個人が存在するということは、そこに「移動できる人間と空間が存在する」ということが、けっして切り離すことのできない条件として成立していなければならないものなのであり、「言い換えれば、移動の可能性がなければ個人は存在しない」(※3)のだということもまた、ここで留意しておくべき重要なポイントなのだ、ということである。
移住者としてイオニアに降り立った人々は、「最初からその地で生きることを条件づけられていない」という意味でも「最初から個人」なのであった。彼らは、それぞれの来歴・背景はそれこそさまざま多様にあるにせよ、ともあれまずは「自らの意志と動機」にもとづいて、それまで暮らしていた地元共同体を離れて遠くイオニアの地に辿り着いた。そして当地において、自分自身いかに生きていくべきなのかを自分自身の意志と主体性をもって選択し、そのような自分自身と同様に、イオニアの地に辿り着いたその最初から個人であった人々との間で、その都度新たに生じていくさまざま多様な社会的諸関係を、「あくまで個人として」その都度新たに構築していったのであった。
この、その都度新たに構築していく関係性を支えるものこそ、まさしくそういった個人による「移動=遊動」であり、そういった個人相互間の「交通=交換」なのだ、ということになる。逆に言えば、イオニアはまさにそれが可能となる空間として見出されていたがゆえに、人々はその見出された交通路を手繰り寄せるようにして辿っていき、「人が最初から個人であることが可能となる空間」イオニアへと、「わざわざ自分から」移動してきたわけなのである。
そして当時の地中海世界にあって、ある意味「人間の坩堝」のようであったイオニアにおいて、その地に生きる多種多様な「最初から個人であった」人々の、その実生活のエートスを支えていたのが、まさしく「イソノミア=無支配」という、当地で特異に発達した政治的原理なのであった。その「イソノミア」なる概念というのは、「最初から個人であった」植民者たちが、互いに「対等=平等」な立場にあり、互いに「自由」な意志と主体性において取り交わす「同意と合意」にもとづいた、いわば「一種の社会契約として成立していた」(※4)のだというように考えることができる、と柄谷は定義づけるわけである。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 柄谷行人「哲学の起源」
※2 柄谷行人「哲学の起源」
※3 柄谷行人「哲学の起源」
※4 柄谷行人「哲学の起源」