不十分な世界の私―哲学断章―〔25〕

 可能性とは、私たち一般の現実において一体何が可能であるか?ということを、私たちがすでに知っているという限りで、それを私たちの現実においての可能性として、私たちの意識の対象として捉えているものだ、と考えられる。私たちは、それが私たちにとって可能であることなのだということを何も知ることがなければ、私たちは、もしかしたらそれが私たちには不可能であることなのかも知れないということについてさえ、何も知ることができない。
 では、どのようにして私たちは、私たちにとって可能であることについて、「知る」ことになるのか?
 私たちが「すでに生きているこの現実」とは、「すでに誰かが生きてきた現実」だ、とも言える。すでに誰かが生きていたこの現実は、すでに生きてきた誰かにおいては「すでにそうなっている現実」であり、私たちはその現実を、「私たちにおいてもやがてそうなりうる現実」として、つまりは「私たちの現実の潜在的な可能性」として見出している。すでに生きてきた誰かにとって可能であることは、現に生きている私たちにおいても可能であるとして、その可能性は、「現実としての一般性」を持つものとなる。私たちは、誰かにおいてすでにそうなっている現実として見出された、彼らの「可能性の事後において見出された現実性」を、私たちにおいてもまた、「事後的に現実へと転化するのが可能であること」として、私たち自身の「現実の事前的表現」として、それに投影して見出す。そのように私たちは、私たちが現に生きているこの現実においての可能性を、私たちがそうなりうる現実の「潜在形」として、「すでにある現実」の、私たちの現実への「可能性の潜在的な投影」として、知ることになる。

 誰かにおいてすでにそうなっている現実を、私たちにおいてもそうなりうる現実の潜在性として、つまり私たちの現実的な可能性として、私たちがその意識の対象として捉えた限りは、私たちはそれを、私たちにおいても「実際にそうなった現実」として実現させなければならない。私たちは、私たちのそうなりうる現実として私たちに示され、私たちの現実性の潜在形として私たちの意識の対象として捉えたものの中から、「一つの具体的な形」を、つまり私たちの実際の現実を具体的に実現して、私たちの生において潜在的に持っているところの「誰かの生においてすでにそうなっている現実」と、一致させなければならない。その一致において私たちの可能性は、「誰においても実現することが可能であったもの」として、現実としての一般性を獲得するところとなる。
 私たちは、その自らの潜在的な可能性の中から実際に実現できるようなものを、その生において何かしら選び取らなければならない。私たちは、そのいくつもの可能性の「どれ」を選んでもよい。どの可能性を実際に選ぼうとも、それは私たちの可能性の実現として「実際にありうる」ものなのだ。AであれBであれ、それが「可能性である限りにおいて一般的」なのであり、いずれの可能性であれそれは、「実現しうるものとして一般的」なのだ、と言える。そして、いくつかの可能性から選びとられた一つの具体的な形が、私たちの現実にとって、実際に可能であったことの具体的な実現だ、と言えるものとなる。
 しかし、実際に実現できるのは、その選びとられた具体的な一つの形だけだ。私たちが実際に実現できるのは、「その選びとられた一つの現実において、私たちがそうなろうとするものだけ」なのだ。それが私たち自身の「現実の姿」なのだ。人は「全てのものになることはできない」のだから、人は「ある一つのものにならなければならない」のだ。それが、実際に可能であったところの、その人自身の可能性の実現なのだ。
 ところで、「他の」可能性が、実際に実現できるものであったかどうか、「一つの可能性が実現された後」となっては、もはやわからないことである。私たちが「選ばなかった可能性」は、私たちが「実現しなかった」のであれば、「私たちのもの」ではないし、「誰のもの」でもない。それは、だからこそ「一般的な可能性」なのである、と言うしかない。
 私たちが実現した可能性があるということは、私たちが実現しなかった可能性があるということで、つまり私たちが実現した可能性とは、可能性の「ほんの一部分」にすぎないかもしれない。そのような、可能性のほんの一部分でしかなかった私たちの現実は、しかし、それが私たちにとって「実際に可能であったこと」なのだ。それが、私たちがなりうる可能性から、私たちが現実にそうなろうとするものとして選び、かつ実際にそうなったものとしての、「私たちの現実そのもの」なのだ。それが、私たちが実際にこの現実の中で見出すところの私たち自身、つまり私たちの「自己そのもの」なのだ。
 そのように、一般的な可能性の実現としてあるような私たちの自己は、それゆえに「自己として一般的なもの」であるようなものとしてあるのであり、「ごく一般的な、ありふれた自己」と言われうるようなものとしてある。

〈つづく〉

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