労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈1〉
労働と労働力。この二つの言葉の「違い」について敏感な人というのは案外と少ないものである。いや少ないどころかほとんど全ての人たちが、このことについてさして深く考えを巡らせるわけでもなく、それらをただ混同させたまま、日々実際に労働しているのだ。これはある種不条理な光景ではないか。
「もともと『労働力』とは商品以外の何ものでもなく、『労働力が商品になる』のではない」(※1)と柄谷行人は言っている。つまり「労働力」とはそれ自体として自立した存在ではなく、あくまでも「商品としてのみ見出されている」ものだ、というわけである。このテーゼは、現実の労働をめぐって生じている社会的な諸課題を解決するまでには到らないとしても、労働という事象にベッタリと取り憑いている、さまざまな謎や呪いを解く何らかの鍵にはなりうるだろう。私自身、その実際の体験に照らし合わせてみる限りで言えば、この言葉を受けて膝を打ち腑に落ちるようなところが実に多いのである。
スマートフォンにロボット掃除機の「仕事」を果たさせようと考える消費者は現実としていないだろう。それぞれの用途に応じた物を買い、使用することだろう。そもそも「商品」とはそういうものである。しかし図らずも人間というものは、その両方の「仕事」が実際にできてしまう。「やらせよう」と思う限り人間は、悲しいかなその要請に際限なく応えることができてしまうのだ。これはもちろん、人間が自らの行為=労働を主観的・主体的に捉えることによってこそなしうるところのものであり、またそうでなければけっしてなしえないことなのである。しかし本来「商品」にはそのような主観も主体性もない、いやそれは「けっしてあってはならない」ものなのだ。このような意味において、「人間=労働力」を商品として扱うことは、二重に生じた倒錯として、本質的にそのそれぞれの領域を根本から逸脱しているし、全くもって不条理であり不当なことなのである。
労働力が「商品として見出されうる」のは、個々の人間によるそれぞれ個別の行為としてあるところの労働が、何処の誰の行為であるかとも問われない「一般的なもの」として抽象されることによってだと考えることができる。
まず一般に考えられているところの労働とは、個々の人間がそれぞれ個別に従事する「仕事」の、その現実的かつ実際的な行為それ自体であると言えよう。個々個別の人間たちは、自らの従事する仕事が「けっして一般的・抽象的なものではなく、常に具体的で、なおかつ特定の経済組織における特定の仕事なのである」(※2)とエーリッヒ・フロムが代弁するように、まさしく「一般的」にごくごく素朴に考え信じていることだろう。彼らはそのような「具体的な仕事=労働」によって日々生活する糧を得、あるいは自尊心や名誉をも得ているというわけである。
しかし、そのような具体的で現実的な個々の人間による、それぞれ個別かつ特定の仕事に対して、「これは私の、私自身による、私ならではの仕事なのだ」とばかりに、一定の主体性と矜持を持って従事することが可能となるのは、むしろそれが「仕事として一般的であるからこそ」なのである。言い換えれば、そのような具体的で現実的な個々の人間による、それぞれ個別かつ特定の仕事が「仕事として一般化されている」のだ。
そのような「一般的な仕事」だからこそ人間は、安心して来る日も来る日も「同じ仕事」を続けていられる。逆に日々その都度バラバラの、何ら概念としてまとめ得ないような「何とも言い表しようのない仕事=行為」をしていなければならないとしたら、人間は内心で漠然とした「何とも言い表しようのない不安」に襲われ、とてもその日一日さえやり過ごせないだろう。
人間の、それぞれ個別かつ「独自」のいかなる行為にしても、それに対するそれぞれの「認識」は、全く「一般的な概念」にもとづいてそれぞれの意識に刻まれているものなのである。逆にもしそうでなければ人間は自分自身の行為ですら、何一つとして明瞭に認識することなどけっしてできはしないのだ。
〈つづく〉
◎引用・参照
(一部、筆者による文章の要約もしくは変更あり。以下同)
※1 柄谷行人「マルクスその可能性の中心」
※2 フロム「自由からの逃走」