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圧巻の感動が押し寄せる本多孝好最新作『こぼれ落ちる欠片のために』より、冒頭60p特別公開‼

本文をお読みいただく前に

突然ですが、担当編集は高校生の頃に出会った本多孝好さんの『MOMENT』という小説が好きです。単行本初版の刊行は2002年。病院でバイトをする神田が、出会った末期患者の願いを叶えるために行動する中で、出会った深い悲しみに心を揺さぶられていく様子を描いた、静謐な筆致が光る青春ミステリーです。

文庫版は現在33刷・50万部超えのロングセラー。発売から22年の月日が経った今でも、この物語の素晴らしさは色褪せません。


『MOMENT』シリーズ(左から順に読むことを強くオススメします)


『MOMENT』には、続編的位置づけの『WILL』と『MEMORY』という作品があります。3作を通して「神田」と幼馴染の女性「森野」の関係性が描かれているのですが、二人の簡単には言葉に表せない繋がりに惹かれた方も多いのではないのでしょうか。

そんな本多孝好さんが、新たな男女バディものとなる『こぼれ落ちる欠片のために』を上梓しました。前作から3年ぶり、待望の新作となった今作は、連休明けの11月5日(火)に刊行となります。



舞台は、日本某所の警察署。あるマンションの一室で発生した殺人事件を捜査するため、主人公の和泉は現場に派遣されます。しかし、被害者の身元からは殺害の動機になりうるものが無く、犯人を特定するのに苦戦。ようやく掴んだ証言から、一人の容疑者が浮かび上がるのですが――。容疑者は和泉の前で一体何を語るのか、それは本文を読んでお確かめください。

今作は、本多さんにとってキャリア初となる警察ミステリー。収録された3つの中編は、いずれも想像を超える着地点を迎え、皆さんの心を強く揺さぶることでしょう。本作を先読みした書店員さんからも、この物語の読後感に絶賛の声が相次いでいます

最終篇の原稿を本多さんからいただいた際、これが仕事だということも忘れて一気読みしたことを鮮烈に覚えています。物語の最後に辿り着いたとき、皆さんはどのような感情を抱くのでしょうか。読了後に、皆さんの感想を聞けることを心より楽しみにしております。

それでは、『こぼれ落ちる欠片のために』より、第一話「イージー・ケース」の冒頭60pを公開いたします。和泉と瀬良の出会いを、どうぞお楽しみください。



※noteでの掲載に合わせ、何度かに分割して読み進められるよう、書籍版よりも数字見出しを増やしています。途中で一度休憩などを取る際に目次をご活用ください。


イージー・ケース

1

 部屋に入った途端、むせそうになった。マスクをしていても無駄だ。体が匂いを本能的に拒絶している。鼻呼吸をやめ、慎重に喉から空気を入れる。

「刻め」

 いつの間にか俺の背後にいた宮地班長が短く命じた。

 いつも嚙み締めているようなごつい顎にぎょろりとした目玉。その風貌は、俺に深い海底で獲物を待ち構えるクラーケンを想像させる。少なくとも俺の頭の中では、現実のどんな生き物とも結びつかない。

 すでに部屋にいる宮地班の何人かが、低く短く応じた。

「っす」と俺も口の中だけで返事をする。

 通信指令室に入った一一〇番通報によれば、被害者は大量の血を流し、室内の中程に倒れていたという。運ばれた病院で、先ほど死亡が確認されていた。

 俺が県警本部の刑事部捜査第一課強行犯二係に配属されて十ヶ月が経つ。が、こうして殺人事件現場に臨場するのは、これでまだ二度目だ。

 こと殺人事件の場合、本部が動く前に被疑者が確保されるケースがほとんどだ。犯人がその場に留まっていることも多いし、近くの交番に出頭してくることもある。そうでなくとも、事件認知直後に現場付近を探索すれば、茫然と立ち尽くしていたり、明らかに不審な体で歩き回っていたりする。殺人に手を染めてなお、普通の生活者の顔に戻れる人は多くない。

 が、この事件の犯人は違うらしい。被疑者確保の知らせはまだない。

 久しぶりにありついた自分たちの事件だと舌なめずりするか。憎き犯人を挙げてやると武者震いするか。

 県警本部の捜査第一課までくるような警察官はだいたいそのどちらかの反応を示す。それくらい強い使命感や正義感がなければ、なかなかたどり着けない部署だ。ブラック企業も真っ青な職場環境を自ら希望し、かつそこで結果を出し続けた、ほんの一握りの刑事警察官が県内の各署から集ってくる。それが本部の捜一だ。

 その中では俺は異質なのだろう。凶悪事件を前にしても、舌なめずりも武者震いもしない。俺はただ怖くなる。凶悪な事件を起こせる誰かが怖くなり、そういう人がいることが怖くなる。

 室内を見回した。床に飛び散った血痕に嫌な寒気がわき起こる。

 室内にいるのは、本部の機動鑑識だ。室内の鑑識作業は終わっているはずだが、迷惑そうな目つきを隠そうともしない。

 ああ、宮地班かよ。

 そう言いたそうだ。

 出動要請を受けても、捜一の捜査班が丸ごと殺人事件の現場に乗り込んでくることは、通常、ない。人数が入っても現場を混乱させるだけだし、そもそも強行犯係の捜査員が現場でやれることなどほとんどない。が、宮地班長の方針は違う。まず現場にくる。きて、遺された凶行の跡を胸に刻む。被害者の痛み、怒り、絶望。殺人事件となればなおさらだ。被害者はもう二度と声を上げることはできない。

 床にはあちこちに血の痕があった。まるで床自体から流れ出したかのようだ。一人の人間から流れた量だと考えると、改めてぞっとする。鑑識作業は手間取っただろう。歩いていいところだけシートが敷かれているが、シートだけでは通路が作れず、血痕をまたぐための踏み台も何ヶ所か置かれていた。

 気が逸れて鼻で呼吸をしてしまい、また息が詰まる。

 いったいどんな心理状態になれば、人はこんなことができるのか。熊や虎の仕業ではないのだ。やった誰かを憎むより先に、この行為が人から生まれたことに俺は怖じ気づく。

「ひどいな」

 呟いた同じ宮地班の早川さんと目が合う。

「そうっすね」

 少し意外な思いで俺はうなずいた。

 いつもなら人一倍の正義感で、犯人への怒りをあらわにする人だ。が、今の声に怒りはなく、どこか投げやりな響きがあった。あるいはあまりの怒りで、かえってそんな声になったのかもしれない。

 一度、強く息を吐いて体から嫌な寒気を追い出し、俺は改めて室内を見回した。

 八階建ての長細いマンションの五階。外から見た限り、個々の部屋はどれも大きくない。この部屋も明らかに単身者用の造りだ。部屋には、半年前、近くの交番の巡査が巡回連絡で訪問していた。記載してもらったカードによれば、部屋の住人の名前は城山雅春、年齢は三十四歳。県内の介護事業所に勤めていて、同居人はいない。緊急連絡先は茨城県水戸市の城山亮。実家の父親だろう。まさしく緊急事態だ。すでに連絡は管轄署である中山署の刑事課がしているはずだ。息子さんの部屋で、人が刺され、死亡した。遺体の身元確認をしてほしい。真夜中近くにかかってきたその電話を城山亮さんはいったいどんな気持ちで聞いたか。

 匂いには徐々に慣れてきた。生々しい血痕を頭の中で消し、つい先ほどまでここで営まれていた自分と同年代の男の暮らしを思い浮かべる。

 三十代前半で独り身は同じ境遇。部屋に格闘の跡は残るが、その他の箇所はきちんと整頓されている。そんなところにも親近感を覚える。けれど、室内の様相は俺の部屋とはだいぶ違う。目立つのはアイドルのポスター。壁に四枚貼られている。特定のグループの、特定の女の子がお気に入りだったようだ。少し下ぶくれの、素朴な感じがする顔立ちだが、詳しくない俺はグループ名もその子の名前も知らなかった。

「わかるか?」

 宮地班で一番年上の喜多さんが同じポスターを見上げていた。知っているかという意味だろうが、その目つきは、こんな子を愛でる気持ちがわかるか、と聞きたそうだ。

「すんません。わからんです」

 どっちの意味も含めて答える。

 部屋にあるいくつかの写真立てには、プリントアウトされたその子の写真が様々なポーズと表情で収まっていた。孫娘の写真を飾るおじいちゃんのようだ。愛を感じる。

 格闘のせいで倒れたのだろう。横倒しになった木製の棚から、写真集やファンブックが溢れていた。周囲に散らばるアイドルのDVDは、おそらく棚の上に並べてあったものだ。部屋に不相応な大きなテレビは、これを見るためか。

 俺はキッチンに目を移した。一通りの調理用具がそろっている。食器棚も、冷蔵庫も、単身者にしては少し大ぶりだ。外食より自炊を好む人だったのか。アルコール類は見当たらない。

 DVDを流し、アイドルの歌声に合わせて鼻歌を歌いながら、一人、手の込んだ夕食を作る同年代の男を思い浮かべた。

 入り口付近の血だまりが目に留まって、ほころびかけていた表情が自然と引き締まる。

 最初に刺されたのは、そのドア付近。応対に出てきた被害者に犯人が襲いかかった。傷口を押さえながら中に逃げ込んだ被害者を犯人は追いかけ、ベッド脇でひと突き。床に転がったところを、さらにもうひと突き。あとで詳しい報告が入るだろうが、血痕の位置関係からしてそう遠く外れてはいないはずだ。強い殺意が見て取れる。部屋に格闘した痕跡はあるが、物色された形跡はない。

「相変わらず多いな。仲良しかよ」

 戸口からぼやくような声が上がり、俺は振り返った。

 白髪の目立つ髪を短く刈り込んでいる。頰がこけた顔は修行僧のように見える。長島管理官だ。

「遅くに、お疲れ様です」と宮地班長が頭を下げる。

「誰のせいだよ」と長島管理官が本気で苦い顔をする。

 宮地班長が班を率いて現場にきてしまうので、長島管理官もそれに付き合う羽目になる。

 宮地班長を手招きで呼び寄せ、二人は外に出た。これまでの初動捜査の成果と、これからの手順の確認だろう。すでに中山署の刑事課を中心とした捜査員と本部の機動捜査隊の隊員が周囲に散り、遺留品の捜索や聞き込み、防犯カメラの所在確認を始めている。

 宮地班長だけがすぐに戻ってきた。

「都倉と早川、病院に行って機捜と代わってくれ。今夜中にご家族がくるらしい。喜多と仲上は地取りに合流しろ」

 時間も遅い。普通なら、今夜の捜査は所轄と機捜に任せ、明日の捜査本部設置を待って、本格的に捜査に合流するだろう。が、これが宮地班長のやり方だ。

 命じられた四人が現場の様子を胸に刻んで、部屋を出ていく。

 俺は四人を見送った。いつもなら、地取りには俺とナナさんのペアが真っ先に指名されていたはずだ。

 警察官を続けていると、次第に得意分野というものができあがっていく。

 今、部屋を出ていった四人のうち、都倉さんのペアは取調室で力を見せつける。上がってきた証拠と証言を頭に叩き込み、狭い密室の中で被疑者を落とす話術と駆け引きは捜一のみならず県警で随一だ。喜多さんと仲上さんのペアは粘り強さと丁寧さを信条とする。どんな小さな違和でもしつこく追及し、どんな些細な証拠でもとことん検証する。その根気強さで複雑な事件を解きほぐしていくのが二人の真骨頂だ。

 得意分野があるのは捜一の捜査員だけではない。

 俺の警察学校の同期には、鑑識作業が得意で、思いもつかないような場所から犯人の指紋を採ってくるやつがいる。犯行現場から、犯人の動きをイメージする力が秀でているのだろう。所轄の刑事課にいたときの同僚には、あらゆる物に詳しい先輩がいた。その物がそこにある意味と違和を察知する能力には、いつも驚かされた。どこかの署には、ひと月の間に職務質問で違法薬物所持者と窃盗常習犯と銃器不法所持者を立て続けに捕まえた交番巡査がいるという。華やかな歓楽街も大きな繁華街もなく、職質で挙がるのはせいぜい自転車泥棒が常の地域だと聞いた。たぶん、その巡査には人を見抜く特別な目が備わっているのだろう。

 警察という巨大組織に、一人で何でもできる天才は必要ない。何か一つができる駒であればいい。堅牢な指揮系統のもと、一つ一つの駒が協力し、助け合って、犯人の検挙を目指す。

 俺とナナさんの得意分野は、初対面の人から必要な情報を聞き出すことだ。現場近辺で聞き込みをする地取りでは、班で無類の強さを発揮してきた。が、ナナさんがいない今、俺には現場のパートナーがいない。じきに捜査本部が立つし、そうなれば所轄署の誰かと組んで捜査に当たることになるだろうが、それまでの間は、俺は一人で動かざるを得ない。二人ひと組が基本となる捜査現場では使いづらい駒だ。俺のせいでないとはいえ、歯がゆい思いはある。

 その思いを汲んでくれたのか、宮地班長が俺に目を向けた。

「和泉。お前は通報者に話を聞いてこい。隣の部屋だ。今、中山署の誰かがついているはずだ」

 第一発見者。すぐに犯人に迫れるわけではないが、もちろん大事な参考人だ。

「わかりました」

「ナナちゃんいないが、やれんな?」

 撤収作業をしていた鑑識の係員から苦笑が漏れる。けれど、宮地班長にからかったつもりはないだろう。現場で軽口を叩く人ではない。一人でしっかりやれと発破をかけられたのだ。宮地班長にしてみれば、班で一番新米の俺は、いまだに半人前か。

「もちろんです」


2

 俺は被害者の部屋を出た。

 一人で動くことに不安などないが、違和感はあった。この十ヶ月、俺の前にはだいたいナナさんの飄々とした笑顔があった。

 本部の捜一は過酷な職場だ。ひとたび事件を担当すれば、昼も夜もない。家に帰れない日も当たり前にある、というより、帰れないのが普通だ。寝られるときに寝て、食べられるときに食べて、あとはひたすら犯人を追いかける。男性主体の意識が強い警察という組織は、女性にそういう仕事をさせることを嫌う。が、被害者にも、加害者にも、女性がいる以上、女性捜査員は不可欠だ。結果、総勢百五十人ほどの県警捜査第一課に、常時、十名ほどの女性捜査員が配属されることになる。もっとも、その配属先の多くは性犯罪捜査係か、児童虐待係で、強行犯係に配属される女性は多くて二、三人だ。俺とペアを組んでいた桜井奈那巡査部長は異常に狭いその門をくぐり抜けてきた。聞き込みで初対面の相手に取り入り、情報を引き出す能力は、捜一にくる前から一目置かれていたという。この十ヶ月、俺はナナさんとペアを組んで、その仕事ぶりを間近に見てきた。ナナさんの妊娠がわかり、強行犯係から離れることになったのは、つい先週のことだ。残念ではあったが、学ぶべきことはすべて学んだつもりでもあった。ナナさんは異動先が決まるまで、強行犯係に所属はしているが、現場からは外されていた。

 廊下に出た。冬の外気は冷たかったが、血の匂いからは解放され、ほっと息をつく。手すりの向こうを見ると、マンション前の道には規制線が張られ、その外側には大勢の人がいた。報道陣らしき人たちの姿も見える。その先に家があるのか、制服警察官が規制線を挟んで苦情を言う人に対応していた。賑やかな街ではないが、マンションが多く、住人も多い。大方は東京に通勤する会社員とその家族の街だ。深夜だからこの程度の混乱で済んでいるが、通勤時だったら大変な騒ぎになっていただろう。

 廊下では鑑識作業が続いていた。止められたエレベーターのカゴ内に特に人が集まっている。隣の部屋の前には制服姿の若い警察官がいた。

「お疲れさん。通報した人、ここかな?」

「あ、はい。署に行くのは気持ちが落ち着いてからにしたいということで、今はうちの刑事課がついています。それ、よかったら」

 俺は現場でしていたヘアキャップと手袋とマスクを外して手に持っていた。彼はそれを指していた。

「ありがとう」

 外し忘れていた腕カバーも取って、ヘアキャップに丸め込んだ一式を彼に手渡す。

「外山と言います。公園口の交番にいます」

「外山さんね。よろしくお願いします」

 これほど大きな事件はそうはない。外山くんは興奮でやや顔を赤らめていた。おそらく刑事部門志望なのだろう。隙あらばまだ俺に絡もうとしている様子の外山くんから視線を外し、俺は部屋のインターホンを鳴らした。通話もなくドアが開く。開けてくれたのは、顔見知りの野上という男だった。一時期、同じ所轄署にいたことがある。確か二つ年下、まだぎりぎり二十代のはずだ。

「ああ、和泉さん。お疲れ様です」

 少し緊張した面持ちで野上は言った。俺が知っていたころは、今の外山くんと同様、地域課所属の交番勤務で、俺がいた刑事課によく顔を出していた。その後、若手のお決まりで機動隊に行ったと聞いたが、無事に刑事部門に引っ張ってもらえたらしい。

「ご苦労様です」と返して、俺は彼の背後をうかがった。

「どんな様子?」

「最初はだいぶ動揺していましたが、今はしっかりしてます」

 話は聞けるということだろう。

「県警の捜査第一課のものです。お邪魔してもよろしいでしょうか」

 たたきから声をかけると中から返事があった。

「どうぞ」

 俺は室内に入った。いずれ署にきてもらって話を聞き直すことにはなるが、今は記憶に変なノイズが入る前に話を聞いておきたかった。人の記憶は本人が思うほど当てになるものではない。

 隣室と似たような造りだった。八畳ほどの居室にキッチン。ほどよく暖められた室内には、二人の人がいた。小さなソファに並んで腰を下ろしている。二人ともが女性だったことに軽く面食らった。しかも一人は驚くほどの美形だ。

「あ、お疲れ様です」

 少しタヌキっぽい愛嬌のある顔をした女性がいったん立ち上がって、俺に頭を下げた。三十代後半か、四十代に乗っているか。中山署の警察官だろう。

「お疲れ様です」と俺も軽く頭を下げる。

 部屋主に入る許可をもらったつもりだったのだが、声からすると招き入れてくれたのはこちらだったようだ。部屋着と見まがうような、ずいぶんとラフな格好をしている。通報者が女性だったので、サポートとして刑事課以外から緊急に動員されたのかもしれない。

 一方でシックなパンツスーツを着た美女は、ソファに座ったまま、俺におずおずと頭を下げた。二十代半ばか。顔立ちが整いすぎていて、年齢がわかりにくい。座っていても、すらりとした体型が見て取れる。脚が長いせいで、膝の位置が高い。身長は俺よりあるかもしれない。プロのモデルだろうか。目は合わせず、俺の胸の辺りを見ている。ひどく居心地が悪そうだ。事件に怯えているというより、この状況を息苦しく感じているように見えた。できれば一人になりたい。そんな張り詰めた表情だった。

「すみません」と言いながら、俺は二人の前に回った。「繰り返しになるかもしれませんが、お話、うかがえますか?」

 ソファの前にはローテーブルがあるだけで、椅子やクッションはない。俺の背後にはテレビ。ベランダ側にはベッドがある。一人暮らしの美女の生活をぼんやりと想像してしまいそうになり、慌てて打ち消す。俺はつま先を立てたまま正座した。野上も似たような姿勢で俺の隣についた。

「何度も話すのはいいんですけど」とタヌキ顔が言った。「びっくりしちゃったのもあって、いろいろ記憶が飛んでるっていうか、頭に残ってないみたいで」

 本人が前にいるのだ。もう少し違う言い方をするべきだろう。現場に慣れていないのかもしれないが、無神経すぎる。

「無理もないと思います」

 押し黙ったまま、こちらに目を合わせもしない美女に俺は柔らかく言った。

「無理に思い出そうとしたりしないで、覚えているものだけを話してください」

 大丈夫ですか、という眼差しを送った。が、やはり美女は俺に目を合わせず、返事をしてきたのはタヌキ顔のほうだった。

「わかりました」

 さすがに違和感を覚えてタヌキ顔に目を向けたときだ。先ほどから何か言いたそうにしていた野上が俺の肩に手を置いた。

「和泉さん、一応」

「一応?」

「確認です。こちら、一一〇番通報をしてくださった小林さんです」

 野上はタヌキ顔を手で示して言った。

 動揺をとっさに誤魔化す。

「すみません。自己紹介がまだでした。県警本部、捜査第一課の和泉です。和泉光輝と言います。通報、ありがとうございました。夜中に申し訳ありませんが、ご協力、お願いします」

 名刺を取り出し、膝立ちになって、タヌキ顔の女性に渡す。

 では、こちらは何者なのか。

 答えを求めて、野上の顔を見た。

「うちの署の、セラです」

 美女が小さく頭を下げる。やはり俺に目を合わせない。まだ一刻も早くこの場を去りたそうな顔をしている。

 お前、そりゃないだろ。

 出かかった非難をどうにか吞み込んだ。

 本部の捜一だと威張るつもりは毛頭ないが、どう見たって俺のほうが年上だ。通報者のフォローという与えられた役割から考えれば、彼女の階級はおそらく巡査。巡査部長の俺より下だ。年も階級も上の人間に対して、ろくに挨拶もしなかった彼女の態度は、警察という組織の基準で考えれば、相当、非常識な部類に入る。とはいえ、黙り込む美女に感情移入して勝手に役を割り当てた俺も悪い。服装と態度からすれば、当然、そちらが部屋の主で、当然、通報者だ。

 気を取り直して、俺はタヌキ顔の小林さんから話を聞いた。

 隣からドスンという大きな音が聞こえたのは、夜の十一時すぎ。そのとき小林さんはイヤホンをしてスマホで動画サイトを見ていたという。

「最初は何か大きなもの、ベッドとかを移動させて床に置いた音かと思ったんです」

 が、しばらくしてまた大きな音がした。不審に思ってイヤホンを外し、隣の様子をうかがっていると、今度は短く声が上がった。

「どんな声でした?」

「でやっ、ていう感じです。ぎゃーとか、うわーとかならわかるけど、そんな声、人の悲鳴だと思わないじゃないですか。最初は大型犬の鳴き声だったかな、って考えたんですけど、でも、やっぱり人間の声だったよなって」

 普段は音が漏れてくるような造りのマンションではない。ぎょっとしてさらに耳をそばだてていると、ドアが乱暴に開く音がして、誰かが廊下を走り去っていった。

 何か非常事態が起きた連絡が入って、驚きの声を上げた隣人が、どこかへ駆けつけるために、急いで部屋を飛び出していった。

 そう考え、またイヤホンをしてしばらくすごしたが、どうしても隣の様子が気になった。何事もないのを確認するつもりで、廊下に顔だけを出して、隣の部屋を見ると、玄関ドアが中途半端に開いている。

「そこまでやって、確認しないのも、何か落ち着かないじゃないですか」

「それはそうですよね」

 小林さんは、意を決して廊下に出て、隣室のドアに近づく。サンダルが間違って蹴り飛ばされたようなかっこうでドアの隙間に挟まっている。隣の住人とは挨拶を交わす程度で、会話をしたことはない。が、ややぽっちゃりとした体型の、優しげな笑顔の人で、悪い印象はなかった。小林さんは隙間に顔を近づけて、中の様子をうかがった。すぐ先に血だまりがあった。

「いえ、すぐに血だとわかったわけじゃないんです。ただ……」

 ただ異様な気配を感じた。少しドアを引き開けると、こちらに頭を向けて倒れている人が見えて、フローリングにはあちこちに血痕があった。そこで初めてすぐ先にあるのが血だまりだとわかった。悲鳴を上げて部屋に逃げ帰り、一一〇番通報をした。

「一一九番ではなく?」

「そうですね。今、思えば、一一九番ですよね。でも、ああ、何でしょうね。あんなに血が流れていたので」

 小林さんは顔を曇らせて、首を振った。到底、生きているとは思えなかったということか、その禍々しさは犯罪現場にしか見えなかったということか。

 一一〇番したものの、小林さんは頭が混乱して、状況をうまく説明できなかった。ただ部屋が血だらけで人が倒れていることだけは何とか伝えた。受理した担当官は、まずは人命をと考えたのだろう。その倒れているという人は意識があるのか、小林さんに確認した。小林さんはスマホを通話状態にしたまま隣の部屋に戻る。ドアを開け、倒れているのがおそらく隣人であろうことは確認した。その場から声をかけたが、返事はなかった。

「でも、生死の確認のために中に入る勇気まではなくて」

「当然です。話していた担当官は、状況を把握できていなかったんでしょう。そこまでさせてしまって、申し訳ないです」

 もしその時点で小林さんが中に入り、もしその時点ではまだ被害者に息があったとしたところで、あれだけの出血だ。救命処置などとてもできなかっただろう。

 しばらくして、近くの交番から警察官がやってきた。ほとんど同時に通信指令室から要請を受けた救急車も到着した。

「その後のことは」と小林さんは言って、俺に目配せをした。

 そっちでわかるはずだ、という意味だろう。

「そうですね。ありがとうございます」

 うなずき返しながら、俺は素早く小林さんの証言をチェックした。不審な点はないし、事実関係に破綻もない。そもそも警察官を前にして、人はそう簡単に噓をつけるものではない。ついたところで顔に出る。俺が見る限り、小林さんは事件とは無関係な第三者で、だからこそその証言は大事にしたい。

 今、話してくれたのは、見たものの表層だけだ。もう少し詳しい話が聞きたかった。俺は切り口を考えた。

 いつも思う。これで俺が絶世の美男なら聴取はもっと楽だ。偏見だと文句を言われようが、差別だと非難されようが、人は見た目のいい人を前にすると、無意識に優遇しようとするし、無意識に好かれようとする。小さいころからわかってはいたが、初対面の人から重要な話を聞かなければならない、しかも証言者には何の利益もないにもかかわらず協力を仰がなければいけない、こういう仕事についてみると、人間のその習性を改めて恨めしく思う。俺の顔が、ある意味、その対極にあるからだ。

 生まれて初めてついたあだ名は『モブモブ』。命名者は三つ年上の姉だ。イラストまで描いてくれた。大きな丸の中に小さな丸が二つと点々と線。目と鼻の穴と口だそうだ。

「これ以上、つまんなくできない顔。モブの中のモブ。モブモブ」

 もう少し大きくなって「モブ」の意味がわかったときには、傷ついたけれど、納得もした。俺は我ながら驚くほど特徴のない顔をしている。二、三人ならともかく、集合写真では、俺自身が俺を探すのに苦労する。待ち合わせの時間に待ち合わせた場所にいても、家族ですら俺の前を通りすぎる。

 そんな顔だ。他人から無闇に協力が得られるとは思っていない。

 ふと期待して、小林さんの隣にいる美形に目を向けたが、セラという中山署の警察官は、俺を見ていなかった。じっと自分の手元を眺めている。まるでそうあることを芸術家に定められた彫像のようだ。これほどの美形なら、俺がやるよりはるかにすんなりと話を聞き出せると思うのだが、どうやら期待できそうにない。聞き込みなどない、内勤部署にいるのだろう。

「それにしても驚いたでしょうね」

 俺は小林さんに目線を戻して微笑みかけた。

「あんな血だらけの現場。自分ならきっとその場で腰を抜かしてますよ」

 ちょっと大げさなくらいに後ろによろけて見せる。情けない顔になっていることは百も承知だ。それでいい。頼りないが悪いやつじゃない後輩。そのくらいのポジションを演じる。

 この十ヶ月、俺はナナさんからいろいろ学んだ。天性の人なつっこさ、と思っていたナナさんが、実は計算して人と向き合っていることを知った。
『嘆くな坊主。君のその顔は、むしろ武器。何者でもないなら、何者にでもなれる』

 ナナさんに励まされながら、俺なりに聴取術は磨いてきたつもりだ。

「あ、私もほとんど腰、抜けてました」と小林さんは乗ってきてくれた。

「部屋に帰るときなんて、もう、こんなです。ほとんど四つん這いで」

 小林さんが両手で空を搔く。

 聴取のときにリズムが合う人と合わない人というのはいる。性格の問題ではないし、俺に向けた感情も関係ない。たぶん言語パターンか、そのもととなる思考パターンかが似ている人なのではないかと俺は考えている。リズムが合わない人には、こちらから合わせにいく必要があるのだが、小林さんには不要のようだ。

「それはこうなりますよねえ」

 小林さんより無様に両手で空を搔きながら、俺は大きくうなずいた。

「なります、なります」と小林さんもうなずく。

「だって、最初に様子を見に行くときだって、勇気が要ったでしょう?」

 大きな音が続いて、隣室から誰かが駆け出していった。とっさに見に行ったのならわかる。が、小林さんは少し時間をおいてから隣の様子を見に行っている。そこに理由があるなら、知りたかった。なぜ一度は落ち着けた腰を、あえて上げたのか。けれど、直接、尋ねれば、小林さんはその理由を探してしまう。探して、なければ、作ってしまうだろう。人の証言は往々にしてそうして歪んでいく。それは避けたかった。だから、その部分を無意識にもう一度説明するよう水を向けた。

「すぐ隣とはいえ、時間も遅いし、よく知らない人だし。怖いですよねえ」

「そうですね。どきどきでしたよ。こう、廊下の様子をうかがって、後ろも気をつけながら、そっと隣のドアに近づいて」

「後ろって?」

「走っていった人が、思い直して、戻ってきたら、びっくりするじゃないですか」

 俺はマンションの造りを思い浮かべた。

 被害者の部屋からエレベーターに向かうなら、小林さんの部屋とは逆に進むことになる。

「小林さんの聞いた足音は、あっちのほうへ?」

 俺が現場とは逆の方向を指すと、小林さんは「え?」と小さく声を上げた。小林さんの部屋の前を通った先には外階段があるが、あまり使われているようには見えなかった。明かりも少なかったから、特に夜には使いたくないだろう。

「そういえば、そうですね。でも、うん。足音はあっちの方向だったと思います。あのとき、私、背後を気にしたんですから」

 無意識に抱いたその違和感が、小林さんがあえて腰を上げた理由だ。

「隣の城山さん、いつもはエレベーターでしたか? 階段を使うようなことは?」

「城山さんに限らず、だいたいみんなエレベーターを使います」

「そうですよね。五階ですもんね」

「それもありますし、駅に向かうなら、エレベーターを使って普通にエントランスから出たほうが早いんですよ。階段を下りると、裏口から出ることになりますから」

 走っていったのは、ほぼ間違いなく犯人だろう。犯人はエレベーターを目指さずに、階段を目指した。急いだのではなく、エレベーター内の防犯カメラを避けるためか。ということは、当然、くるときも犯人はエレベーターを使っていない。マンションの他の防犯カメラも避けているはずだ。犯人は最初から城山さんを殺すつもりでこのマンションに侵入した。とするなら、犯人は城山さんを知っている可能性が高い。

「これ、聞いてた?」

 野上に小声で聞いた。

「いえ」と野上が申し訳なさそうに首を振る。

 野上が聴取に慣れていなかったということもあるだろうし、小林さんがまだ落ち着いてはいなかったということもあるのだろう。

「うちの班長に知らせてきて」

 鑑識はエレベーターのカゴ内の作業に力を入れているように見えた。今、外を回っている地取り捜査も、捜索範囲の比重を変えるべきかもしれない。

 野上が立ち上がり、部屋を出ていった。

 いずれはわかったことだ。が、今、わかるのが大事なこともある。こういう小さな一つ一つが捜査の進展を大きく変えていく。

「お話、すっごく助かります」

 俺は軽い笑顔で明るく言った。自分の証言で人が動いた。それを重く受け止められると聴取がしにくくなる。軽い調子で続ける。

「それで、城山さんの暮らしぶりはどうでしたか? わかる範囲で結構ですので」

「暮らしぶりですか」

「たとえば、どこかへ出勤していた様子は?」

「あ、それは、はい。普通に。朝、出かけて、夜、帰ってくる生活だったと思います。ああ、よくスーパーの袋を持ってましたから、自分でご飯を作る人なんだなって」

「客が訪ねてくるようなことは? 友達がやってきて、騒いでて、うるさいなあ、とか」

「全然、ないです。人がきてるのも見たことないですね。うちで女子会して、騒いじゃったことは何度かありますけど。それで文句を言われたこともないですし」

「いい人だったんですね」

「そうですね。穏やかそうな人でした」

「特定の、恋人みたいな人がくるような様子もなかったですか?」

「なかったと思います。窓を開けているとき、ごくたまに隣から女の子の声が聞こえてくることがありましたけど、よくよく聞いてみると、テレビの音でした。そういう番組はよく見てたと思います。テレビの音が聞こえてくると、だいたい若い女の子が喋ったり歌ったりしている音でしたから」

 アイドル好きは、親しくない隣人にもだだ漏れだったということだ。そんな三十代の男性をいったい誰が、なぜ殺したのか。


3

 翌朝、俺たちは中山署に設置された捜査本部に集合した。宮地班は、捜査が終結するまで、県警本部ではなく、捜査本部となった中山署の会議室に通うことになる。とはいえ、どの道、家に帰れる夜はほとんどないはずだ。同じフロアにある道場が当面の寝床になる。

 最初こそ、県警本部の刑事部長も、捜査第一課長も、中山署の署長も顔を出した。が、型どおりの決意表明が終われば、すぐに引きあげていく。それはそうだ。事件はこれだけではない。実際に捜査の指揮を執るのは長島管理官であり、実際に現場を仕切るのは宮地班長だ。

 雲の上の人とも言える上層部が去ると、会議室の雰囲気が変わる。儀式から実戦へ。緊張感が違う色に塗り変わっていく。

 捜査本部の作り方にセオリーはない。今回は広い会議室の前方に幹部用のひな壇が作られ、それと相対する形で捜査員用の長机がずらりと並べられていた。

「須々木課長も、こちらに」

 宮地班長に請われて、中山署の須々木刑事課長もひな壇に加わる。カーネル・サンダースをはげにしたような、笑顔が怖い、黒縁眼鏡の大男だ。かつては本部の捜一で班を率いていたと聞いたことがある。二つ離れた席には、中山署の副署長。その隣でやや場の空気から浮いているように見えるのは、本部係検事の野間検事だ。捜査に口を出したがる検事もいる中で、法律的助言に徹してくれる検事として、警察内での評判はいい。

 相対する捜査員たちの中で前方に座るのは、俺たち、県警捜査第一課強行犯二係、宮地班のメンバー六人だ。今朝から合流したナナさん以外は、誰も家に帰っていない。喜多、仲上ペアはできる限り地取りを続けた。病院で被害者のご家族から聞き取りをした都倉、早川ペアは、その後、事件当時付近を走っていた車の割り出しに当たっていた。ドライブレコーダーから情報が取れる可能性を考えてのことだ。俺は通報者である小林さんの聴取を終えたあと、中山署の捜査員とともにマンションに住む他の部屋の住人たちを当たれる限り当たった。さすがに深夜だったので、すべての部屋のインターホンは押せないが、明かりがついていて人の気配がする部屋はすべて当たった。その報告書をまとめたときにはとっくに朝になっていた。道場で軽く仮眠しただけだが、殺人事件が起きたのだ。今、働かなければ、俺も捜一も存在する意味がない。

 俺たちの後ろに、所轄署の人たちがざっと四十人ほど並ぶ。

 事件に関わるモノや情報は、時間の経過とともに加速度的に失われていく。そうなる前に、大量に人員を投入し、一気に事件の解決を目指す。そのための捜査本部だ。中山署からは刑事課だけではなく、生活安全課、交通課、地域課、あらゆる部署から人が供出されている。当直明けの人も、休日が飛んだ人もいるだろう。近隣署からの応援も入っているはずだ。

 居並ぶ捜査員に向けて、昨夜からの捜査で収集された情報が共有される。話を聞きながら、俺は中山署の人が配ってくれた捜査資料をめくった。

 そこの写真で、初めて被害者、城山雅春さんの顔を見る。丸っこい顔にくりっとした目をしていた。この童顔で、ぽっちゃり体型だったというなら、あだ名はプーさんかマシュマロマンか。いずれスマートなあだ名がついたことなどなかっただろう。そんなことにも親近感を抱く。

 被害者の身元と、現場や発見時の様子とに俺にとっての新しい情報はなかった。

 連絡を受けて、夜の間に水戸から車でやってきた両親が、遺体を城山雅春さんだと確認していた。

 死因は失血死。司法解剖鑑定書はまだきていないが、凶器は片刃の刃物、たとえば小型の包丁のようなものだと推定されていた。現場から凶器は見つかっていない。

 室内から検出された足跡は、二十六センチのスニーカー。が、有名メーカーの大量生産品で、そこから犯人の身元を割り出すのは難しいとのことだった。

 被害者である城山さんの爪からは綿の黒い繊維が、歯からはポリエステルや綿やアクリルの糸が混ざった白い繊維が採取されていた。黒い繊維は衣服のもの、白い繊維は軍手のものと思われた。おそらく犯人ともみ合ったときのものだ。その情報が知らされると、会議室が瞬時、しんとした。

 城山さんは襲いかかってきた刃に必死の思いで抗った。あれだけの血を流しながらも、犯人の服をつかみ、軍手の上から手に嚙みついた。その無念さが捜査員たちに静かに染み渡る。多くの捜査員たちはしっかりと怒りを刻んだだろう。俺は違う。城山さんの目に映った犯人はどんな形相だったか。それを想像して、震える。

 案の定、マンション内の防犯カメラには、犯行時に不審な人物の出入りは確認されていなかった。

「うちの和泉が聞いたところでは」と宮地班長が前置きして、隣にいたナナさんが俺の腕を肘で小突いた。にやっとしたナナさんに小さく頭を下げる。

 その様子を瞬時、横目で捉えながら、宮地班長が第一発見者の小林さんの証言から推測される犯人の逃走経路を紹介した。

 五階から外階段を下り、一階の手前で手すりを乗り越えれば、マンション内の防犯カメラには映らずに建物を出られる。廊下と階段、それに手すりからは被害者のものと思われる血痕がわずかながら採取されていた。犯人の靴か衣服についていたものが付着したのだろう。血痕はさらに、外階段の下の外壁やコンクリート地にも付着していた。

 手すりを乗り越えた犯人は、しばらく外階段の下に息を潜めた。そこで衣服についた血痕を何らかの手段で目立たないようにしたあと、フェンスを乗り越え、隣のマンションとの間にある細い道に出て、左右のどちらかに向かったと思われた。が、昨夜の地取りでは、不審人物の目撃証言は得られていない。深夜のことだ。無理もない。

 犯人は日常に戻った。自首もせず、自分を失いもせず、殺人前の日常に戻っていった。今、このときも一市民として暮らしている。いったいどんなやつなのか。俺はその顔を見たくなる。怖いからだ。わからないからなお怖い。せめて捕まえて、目の前で見ないことには落ち着かない。

 他の誇り高き捜査員たちとは違う。情けない話だが、この恐怖こそが俺にとって犯人を追いかける力の源泉だ。

 その後、宮地班長が捜査員を二人ひと組にして、それぞれの組に仕事を割り振っていく。現場に出られないナナさんは、早々に現場から上がってくる報告書をまとめる役割を仰せつかっていた。

「和泉」

 やがて宮地班長が俺の名前を呼んだ。

「中山署のセラとシキ鑑。仕事関係な」

「はい」

 またナナさんに肘で小突かれた。激励と、たぶん嫉妬だ。

 犯行前後の動きからすれば、犯人は被害者の城山さんと顔見知りである可能性が高い。つまりは被害者の関係者から聴取をするシキ鑑が、一番早く犯人にたどり着く可能性があるということだ。

 宮地班長が、そのシキ鑑に俺を入れてくれたのは、通報者から話を聞き出したご褒美とともに、やはり適性もあるだろう。人から話を聞き出すのは、宮地班では俺とナナさんの仕事だ。

 仕事を割り振られた捜査員たちが動き出す。ナナさんも俺から離れていった。

 俺も立ち上がり、周囲を見回した。あてがわれたパートナーを探してのことだ。中山署に知り合いは多くないはずだが、セラという名前には聞き覚えがあった。どんなやつだったかと見渡した視線が、こちらのほうを見ている人を捉えた。

 思わず声が漏れた。

 んぐ、というような変な声になった。

 すでに指示を出し終えた宮地班長のもとに足早に近づく。

「班長。それはないっす」

 片膝をつき、床に向けて小さく囁(ささや)いた。

「何が?」

「ペアです。あんまりです」

「知り合いか?」

「昨日、通報者に聞き取りしたとき、そこにいました」

「じゃ、いいじゃねえか。自己紹介の手間が省ける。何が問題だ?」

「何もしないんですよ、彼女。戦力としてゼロどころか、いるだけ邪魔です。昨日だって、俺と一言も喋ってないです」

 何を言っているかわからない、というように班長が俺を見据える。そこには、単純に俺の言う意味がわからないという疑問の他に、文句を言われていること自体への苛立ちもあった。上意下達が警察という組織の基本だ。それはどのレベルにおいても変わらない。警部である班長のペア割りに文句を言う資格なんて当然、巡査部長の俺にはない。が、昨夜のことを思えば、ここで引くわけにいかない。あんなのが一緒では仕事にならない。

「文字通り、一言も口をきかないんです。警察官としての力量云々以前の問題です。人間としておかしいです、あの子」

「今日日、女性警察官に対して『あの子』発言は、問題あるな」

「じゃあ、あの人でも、あのお方でも、何でもいいです。一言もないんですよ。挨拶すらない。こんばんはも、初めましても、お疲れ様もないんですよ」

「お前から声をかけてもか?」

「俺から声をかけても、です」

 通報者の小林さんの聴取を終えたあとだ。部屋を出て、「お疲れ様」と声をかけた。野上は普通に「お疲れ様でした」と返してきたが、セラは軽くうなずいただけだった。それも注意して見ていたからわかった程度のわずかな動きでしかなかった。シキ鑑どころか、市民の前に出すべきではない。警察署の地下のさらに奥のほうにしまっておくべき人材だ。

「そりゃまた、変わってんな」と宮地班長は笑った。「まあ、喋んないならちょうどいいじゃねえか。お前の邪魔にならない」

「そんな……」

 渾身の情けない顔を作ったが、そんなものが効く相手ではない。宮地班長は俺の肩をぐっと押さえた。いつの間にか、笑顔は消えている。

「なあ、俺が期待してんのは誰だ? 所轄のお手伝いさんか?」

 低くドスのきいた声だった。犯人逮捕以外はすべて些末なこと。そういう人だ。

「すんませんでした」と俺は頭を下げた。

 宮地班長が俺の肩から手を離した。


「犯人、捕まえてこい」

「っす」

 顔を上げ、立ち上がる。

 俺のパートナーは会議室の隅でうつむいていた。

 どうせ今回だけだ。

 自分に言い聞かせながら、そちらに近づく。

 こんな場所にいることが不自然に見える立ち姿だった。身長は俺より少し高い。百七十くらいだろう。地味なパンツスーツが、かえってスタイルのよさを際立たせている。

 近づいてきた俺に視線を向けはしたが、セラは何も言わなかった。目ではなく、俺の胸の辺りを見て、固まっている。

 俺は呆れてその顔を見た。やはり感心するくらい綺麗な顔立ちをしている。俺の半分くらいではないかと思うほどの小さな顔に、少し吊り気味の大きな目。すっとした尖った鼻筋。薄い唇。並の男なら、声をかけるのもためらうだろう。俺はそこまでは動じない。昔からそうだ。人並み外れた美人には、かえって物怖じしないで話ができる。『モブ』の自分が、相手にとって明らかに埒外だとわかるからだ。普通の女性になら、俺だってある程度は男性としての自意識を持つし、そのせいで気後れもする。ここまで飛び抜けた美人だと、異性として緊張を強いられることがない。そう思えば、セラは組みやすいパートナーと言える。と考えるしか、納得のしようがない。

「下の名前」

 俺が口を開くと、彼女はびくりとした。内心、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、「言えるんだよな」というきつめの言葉を吞み込んで、もう少し優しく言い直す。

「下の名前、教えてもらっていいかな?」

 彼女はジャケットのポケットを探り、何かを差し出した。名刺だった。

 名刺? ああ、名刺か。

 呆れるのにも疲れて、それに目を落とす。

 中山署刑事課、瀬良朝陽巡査。

『朝陽』は、あさひ、だろう。明るい希望に満ちた名前だ。『光輝』と名付けたうちの親に似た、楽天的な親御さんなのかもしれない。その親御さんは、こんな風に育った朝陽ちゃんを、今となっては、はたしてどう見ているのか。って、待て。

「刑事課?」

 瀬良がうなずく。

 採用そのものが間違いだったろうが、せめて表に出ない部署に配属するべきだ。これが刑事課とは、何の手違いなのか。最近はその激務を理由に人気を落としているとはいえ、総じて言うなら刑事部門は決して希望者が少ない部署ではない。むしろ多くの若手警察官は何とかアピールをして、刑事部門へ引っ張ってもらおうとしている。昨日の外山くんだってそうだ。瀬良はどうやってその狭い門をこじ開けたのか。もはや意味不明だ。中山署の刑事課長であるカーネル・サンダースに聞いてみたかったが、その姿はもう会議室にはなかった。

「仕事関係者から聞き取り。行くよ」

 言い捨てるように言って、俺はさっさと歩き出した。


4

 被害者の城山さんは訪問介護員として、JR駅近くにある『ヘルパーステーションひだまり』という介護事業所で働いていた。

 俺たちは事前連絡なくその事業所を訪ねた。

 被害者の人間関係を把握できていないこの段階では、どこに犯人がいるのかわからない。アポを取ろうとしたその相手が犯人で、訪問を告げたことで逃げられたり、最悪、自殺されたりする可能性だって十分にある。だから警察の訪問はだいたいにおいて不意打ちになる。こういうことが、世間の警察への評価を落とす一因になっているとは思うのだが、かといって有効な別の手段もありそうにない。俺としては、鍛え上げた愛想笑いを精一杯浮かべるしかない。

 対応に当たってくれたのは、『ヘルパーステーションひだまり』の所長と事務を担当している中年女性だった。俺たちの訪問を驚きはしたが、二人とも意外そうな顔はしなかった。事件については、認知直後から逐次、メディアに情報を流している。城山さんの名前も、朝のニュースで報じられていた。俺たちの訪問は予期できたのだろう。

 話を聞ける対象が二人いる。これでペアがナナさんなら、別々に話を聞いていたところだ。二人の証言のギャップから何かが浮かんでくる可能性もある。が、ペアが瀬良ではそうするわけにもいかない。

 俺が二人に質問し、二人は交互に譲るようにしながら城山さんについて話してくれた。

 城山さんは五年前に別の介護施設から転職してきた。仕事ぶりは真面目でそつがない。顧客とトラブルはない。この事業所の訪問介護員の中では若手のほうで、みんなからかわいがられていた。食事会や飲み会などの付き合いはあったが、プライベートな付き合いはほとんどなかった。

「基本は利用者さんのお宅にうかがう仕事ですから」と六十代と思(おぼ)しき小太りの所長は言った。「朝、出かけると、昼前に報告とランチ休憩を兼ねて戻ってくるだけで、午後にはまた介護に回って、夕方まで戻りません。戻ってきたら、一日の報告書を出して上がりですので」

 訪問介護員同士が親しく付き合う時間はないと言いたいのだろう。

 確かに、今も二人以外に人はおらず、事業所内はがらんとしていた。

「なるほど」

 俺はうなずいて、時間を確認した。十一時を回っている。もう少し待てば、訪問介護員さんたちが戻ってくる。

「他の方からもお話を聞きたいんですが、少し待たせていただいても?」

 露骨ではないが、それなりに迷惑そうな顔はされた。何せことが殺人事件だ。関わりたくないと思うのは人情だし、そうでなくともネットであれこれ言われる時代でもある。介護事業所としては変に噂にでもなったら困るのだろう。とはいえ、こちらにもそんな事情をくんでいる余裕はない。何せことは殺人事件なのだ。

 瀬良が笑顔で頼んでくれれば話は早いのだろうが、瀬良は部外者のような顔で俺の後ろにいるだけだ。俺は愛想笑いを『親しみ』から『卑屈』に変えてお願いし、半ば強引に事業所に居座った。一人、また一人と帰ってきた訪問介護員さんたちから話を聞いていく。

 ニュースで見た、という第一声はほとんどの人に共通していた。その後も、好奇心を隠さない人、無関心を装う人、関わり合いになるのを嫌がる人、いろいろいたが、城山さんが殺されたことについて思い当たることは何もない、という最後の答えに違いはなかった。

 所長が俺の隣で、ほらね、と言わんばかりの顔をしている。瀬良は几帳面な背後霊のように俺の背後をついて回るだけだった。

 当たりは柔らかいが口数は多くなく、黙々と仕事をこなし、自己主張はあまりしない。城山さんはそういう人だったようだ。

 五十代以上に見える訪問介護員さんが多い中で、一人、城山さんと年の近そうな女性がいた。所長によれば、彼女が一番、城山さんと親しかったという。何となくニワトリを想像したのは、つぶらな瞳ととりわけ忙しなく働いていたせいだろう。デスクに戻ってもせかせかと仕事を続ける彼女に、恐縮しながら話を聞いてみたのだが、彼女も城山さんのプライベートのことはほとんど知らず、事件について思い当たることはない、とのことだった。

 聴取を終え、事業所が入っているビルを出たところで、宮地班長に電話をかけた。当然、不機嫌な声が返ってくる。

「つまり成果はなしだな?」

「他はどうです? 家族関係とか、友達関係とか」

「何も出てこないな。家族はご両親と妹。ご両親には署で改めて話を聞かせてもらったが、家族間のトラブルはなさそうだ」

 被害者は高校まで実家のある水戸で暮らしていたが、専門学校に進学してからはずっとこちらで暮らしていた。実家には、盆と正月に顔を見せる程度だったが、小まめに連絡をくれる親思いの子だったという。

 妹は結婚して水戸市内で暮らしていて、被害者と特別に仲がいいわけでも悪いわけでもなく、盆と正月に親と一緒に顔を合わせる程度の関係だった。

「家族が知る限りでは、親しく付き合っている異性はいなかったようだ」

 隣人の小林さんの証言とも一致する。

「友人関係は?」

「専門学校時代の友人と、水戸時代からの友人と、それぞれ二、三人はつながりがあったようだが、年に一、二回、会う程度の仲だ。深い付き合いはないし、怪しいやつは出てきてない。何とかってアイドルのファン仲間との交流もあったらしいから、当たらせてはいるが、オンラインの交流がメインで望みは薄そうだ」

 発生後に間もなく認知された殺人事件の場合、ほとんどが初動捜査で被疑者が確保される。が、そうならなかったときには、誰かが事件を読まなければいけない。これはどんな事件なのか。怨恨か、物取りか、通り魔か。それを筋読みという。そして宮地班長は捜一で誰よりも筋読みに長(た)けた刑事だった。

 その宮地班長が苛立っている。

 強い殺意に裏付けられた、計画的犯行。犯人は当然、被害者の近辺にいる。

 宮地班長でなくとも、そう『読める』事件だ。なのに被害者の近辺からそれらしい人物が出てこない。

「地取りからは何か上がってきてないですか?」と俺は聞いた。

 仕事関係にも、家族、友人にも不審な者がいないなら、今住んでいるマンション近辺でトラブルがあった可能性もある。たとえば騒音。たとえばゴミ出し。あれだけの強い殺意だ。トラブルがあれば、表面化しているはずだ。

 が、返ってきたのはシンプルな罵声だった。

「あれば言ってるよ、馬鹿野郎」

 それはそうだ。あれば言っている。俺は馬鹿野郎だ。

「すんません」

 みんなが派手な事件を扱いたがる。そして手柄を競いたがる。警察はそういう組織だ。特に捜一はその傾向が強い。が、その功名心を支えているのはエゴではないと俺は思う。少なくとも、エゴだけではない。悪いやつを捕まえたい。みんなが少しでも安心して暮らせる街を守りたい。個々の警察官を支えているのは、何だかんだいってもその強烈な使命感だ。恐怖にさいなまれて犯人を追いかける俺なんかとは根本的に違う。

 宮地班長の怒りの源もそこにある。わかるからこそ、その怒りの前で俺は畏縮してしまう。

「端末の履歴がわかりそうだ。何か出るかもしれない。取りあえず、引きあげてこい」

 城山さんが使っていたスマホの通信会社へは通話記録の照会をしている。が、対応の早い会社でも返答には数日かかる。今時は通話アプリを使う機会のほうが多いだろうが、アプリが海外企業のものだと、返答にはさらに時間がかかることになる。当面は端末の履歴をもとに捜査するしかない。

「わかりました。いったん戻ります」

 俺がそう言ったときだ。

「あ」

 声が聞こえた。俺はスマホを耳から離して、瀬良を見た。

「何?」

 聞いたが、瀬良はうつむいている。

「どうした?」

 班長の声がして、俺はまたスマホを耳に当てた。

「ああ、いえ。何でもないです」

 俺が応じたとき、また声が聞こえた。

「あの……」

 目をやると、瀬良が控えめに何かを指さしていた。

『ヘルパーステーションひだまり』が入っていたビルから、一人の女性が出てくるところだった。先ほど話を聞いた城山さんの同僚だ。城山さんと一番親しいと言われていた、城山さんと年の近い女性。俺が思わずニワトリを連想した人だ。貴島友理奈、ともらった名刺にはあった。

 歩き去る貴島さんを追いかけるように、瀬良が歩き出した。思わず追いかける。

「あの、今から引きあげますが、あと少しだけいいですか?」

「少し、何だ?」

「いや、何もないかもしれませんが、もう一度、ああ、ちょっと確認しておきたくて」

「わかった。期待してんぞ」

 いや、そういうのではないです、と俺が逃げを打つ前に通話は切れていた。舌打ちしたい気分で目をやると、貴島さんに追いついた瀬良がその背中をつつくところだった。

 貴島さんが瀬良を見て、驚いた顔になる。

「まだ何か?」

 俺もまったく同じことを思って瀬良を見た。

 まだ何かあるというのか。

 が、瀬良は貴島さんの背中をつついたきり、やったのはこいつだと言うように俺の胸の辺りを見ている。小学生の悪戯のようだ。貴島さんとしては俺に話しかけるしかなくなる。

「あの、何でしょう?」

「あーっとですね」

 そして俺も応じるしかない。

 何なんだ、この状況は。

「もう少しだけ、お話、聞けませんか?」

 呼び止めてしまった以上、そう言うしかない。俺まで黙ってしまえば、警察官が二人そろって不審者だ。

「話って、いえ、でも、もうお話しするようなことは何も……」

「ああ、そうですか」という俺の答えにも、『まあ、そうですよね』という思いがにじみ出る。

「はい。先ほど、お話ししたこと以外は特に」という貴島さんの言葉にも、
『じゃあ、なぜ呼び止めたのでしょう?』という当然の疑念がにじむ。

 行かせてもいいのか、行ってもいいのか、困り果てた俺と困り果てた貴島さんが見合ったときだ。くうう、という音がした。俺と貴島さんが目をやる。うつむいて、顔を真っ赤にした瀬良がいた。

「かわいい」

 貴島さんがぽそっと呟いた。

 思わず出てしまったらしい。貴島さんが慌てて口をつぐむ。

「あの、お昼、まだですよね」と俺はすかさず言った。「ランチは、予定ありますか?」

「予定は、いえ、別にないですけど」

「じゃ、ご一緒にどうです? 話って、特別に聞きたいことがあるわけじゃないんです。雑談みたいな感じで、普段の城山さんのことを聞けると助かるんですが」

 期待している、と宮地班長にはっきり言われた。手ぶらでは帰りづらい。瀬良がどんなつもりなのかは知らないが、城山さんについて何か情報を聞けるとしたら、仕事関係では貴島さんだろう。他も手詰まりだと知った今、わずかでも可能性があるなら話は聞いておきたい。

「はあ。まあ、それなら」と貴島さんがうなずいた。

「どうせお昼は食べますし」


5

 午後の訪問介護の予定も詰まっているということで、俺たちは目についた近くの中華料理屋に入った。

 当てずっぽうで入った割には、そこそこ人気の店らしい。大勢の客がいた。一つだけ空いていた四人掛けのテーブルを示され、そこに向かう。背後の瀬良に客の視線が集まるのを感じる。瀬良がいつも顔を伏せている理由はこれなのかもしれない。

 俺と瀬良が並んで座り、貴島さんが向かいに腰を下ろした。

「お忙しいところ、すみません。お時間、どのくらいありますか?」

 貴島さんは背もたれにかけたジャンパーからスマホを取り出し、テーブルに置いた。ディスプレイをオンにして時間を確認する。

「そうですね。三、四十分くらいなら」

 話の流れからすれば、こちらが払うことになるだろう。思い切って高いものも勧めてみたのだが、貴島さんは礼儀正しく、お得なランチセットの中から酢豚定食を選んだ。高いものを選んでくれたほうが、話を聞き出しやすい。が、ほっとしたのも事実だ。班長や管理官は、この昼食代を捜査協力費とも捜査活動経費とも認めてはくれないだろう。

「あ、追加で餃子もどうです?」

 ほっとしたついでに、安めに恩を売れないかと勧めてみる。

「いえ。これから仕事がありますから」

 貴島さんに言われて、自分のうかつさを悟った。これから貴島さんは担当する家を訪ねて、生活の補助や身の回りの世話をするのだ。トイレや入浴や着替えの介助もあるだろう。匂いのする食べ物はふさわしくない。

「そうですよね。失礼しました」

 俺は麻婆豆腐定食を頼んだ。瀬良はメニューのチャーハンを指し示す。

「しょしょお待ちー」

 えくぼが目立つ、やたらと愛想のいい店員が去ってから、俺は貴島さんに向き直った。

「城山さんとは、貴島さんが一番親しかったんですよね」

 先ほど聞いた話を確認する。

「親しいというか、うちの事業所は、年齢いった人が多いですから。三十代は私と城山さんだけで」

 その程度の意味です、という顔で貴島さんが俺を見る。拒絶まではしていないが、警察官に対して、相応の距離は取っている話し方だ。リズムも合わない。

「でも、少しくらいは個人的なやり取りもあったんじゃないですか?」

 言い方に失敗したのが自分でもわかる。押しつけがましい。

 貴島さんの眉間辺りに警戒心が漂う。

「いえ、ですから、それはほとんど。同じ事業所と言っても、お互い、外に出ている仕事なわけですし、顔を合わせている時間そのものが短いですから」

 そして仕事終わりに飲みに行くような職場ではなかった。それは先ほど聞いた。八方ふさがりだ。食事がくる前に話が終わってしまった。

「でも……」

 不意に瀬良が呟いた。

 俺は隣の瀬良を見た。貴島さんも瀬良を見た。が、瀬良は誰も見ていなかった。自分の手元に視線を落としている。

「アイドルとか」

 何かの言い訳のように弱々しく呟く。

 アイドル?

 城山さんと話すなら、その話題だろうとカマをかけたのか。だったら、かけ方が雑だ。けれど、フォローしようとした俺が口を開く前に、貴島さんが応じていた。

「ああ、そうですね。アイドルの話とかは少しはしました。でも、お互い、推しのグループが全然違いますし」

 貴島さんがわずかに緩んだのを感じる。

「あ、貴島さんもアイドル、好きなんですか?」

「いえ、好きってほどでも」

 それで答え終えたつもりらしかったが、俺は気づかぬふりで続きを待つ顔をした。

「城山さんに比べれば、全然です。でも、話題にできるくらいには」

「へえ。貴島さんが推しているのは、どんなアイドルなんです?」

 リズムはまだ合わない。が、人は、自分が好きなことについてなら話す。

「興味あるな。俺もその昔、追っかけてたんで」

 無礼にならない程度に言い方を崩す。

「誰をですか?」

 貴島さんが食いついてきた。

 高校時代に人気のあったアイドルグループを挙げる。俺はまったく興味がなかった。が、同級生の間ではよく話題に上っていた。その中で、よく聞いたメンバーの名前をどうにか思い出した。

「ちょー好きでした。もうあのきらっきらの笑顔だけで、ご飯、三杯は食べられましたから。名古屋にも、大阪にも遠征して」

 と言っていた同級生がいた。

「めっちゃ王道ですね。うわー、話しにくいなあ」

 照れながらも、貴島さんが推しているアイドルグループについて話し出した。

 それは男装をした女性のグループで、メンバーはみんなすらりと背が高くて、運動神経が抜群で、ファンのほとんどは女性で、日常生活の中で男性に目を奪われたとき、ファンはファンサイトに自分の心の弱さを懺悔するのだという。

 なかなか屈折した興味深い話ではあるが、調子を合わせていると結構長くなりそうだった。貴島さんが話すリズムに合わせながら、流れを押すように口を挟む。

「そういう話も城山さんとしたんですね。さっきの事業所でですか?」

「いえいえ。こうして、ランチのときに。うちの事業所、手作り弁当派が多くて、外で食べるのは私と城山くんくらいでした。週に一度もなかったですけど、たまに一緒にランチを食べました」

 リズムが少しずつ合ってきたのを感じる。『城山さん』も『城山くん』になった。

「そういうときって、他にはどんな話をするもんですか?」

「あとは愚痴ですね。やっぱり同じ仕事をしてる人にしかわかってもらえないってこともあるし」

 貴島さんの表情が少し曇る。アイドルのことを話していたときには見せなかった表情だ。

『告白ゾーン』とナナさんは呼んだ。

 表層よりも一枚、奥。普段なら口にはしない何かを話すかもしれない可能性をはらんだ、ごく限られた時間のことだ。そのとき、対応を間違えると、出かけた話は引っ込んでしまい、だいたいの場合、二度と出てこない。手を伸ばしてつかむのか、無言で待つのか、笑顔で招き寄せるのか。それはこれまでの流れや、相手の性格、こちらとの関係性で変わってくる。今回、俺は隣に並んで肩を組むことにした。他業種だが気の置けない仲間。そんな役を演じる。

「ああ、それ、すっごくわかります」と俺は何度もうなずいた。「僕らの仕事も、そういうところ、あるんで」

 な、と瀬良を見たのだが、瀬良は俺を見ていなかった。授業中に反省を強要された中学生のように、テーブルの上をじとっと見ている。やはりゼロどころかマイナスだ。この先、まかり間違ってその権力を手にするようなことがあったなら、こいつは田舎の所轄署の地下に押し込んでやると心に誓う。

「あ、確かにありそうですよね」と貴島さんが流れに乗り続けてくれたので助かった。「守秘義務とかもあるんでしょうし」

「あー、ありますね。署の外には出せない話も」と俺はうなずき、努めて何気ない風に聞いてみる。「顧客とのトラブルはなかったって、所長さんは言ってましたけど、現場では、そういうもんでもないですよね」

「トラブル」と言って、貴島さんは少し笑った。「うーん、トラブルがないはずないだろって、私は思いますけど、トラブルはないっていう所長の言い分もわかります」

「管理職的隠蔽体質みたいな?」

「いえいえ、そんな大げさな話じゃないです」

「大げさな話じゃないって?」

「うーん。どう言えばいいんだろう。ああ、困ったな」

 少し首を傾(かし)げてから、貴島さんは袖のボタンを外して、シャツをめくった。肘の下から手首にかけて濃い青あざがある。

「うわっ。痛そうですね」

 それを作った衝撃を想像して、俺は思わず顔をしかめた。

「ぶつけたんですか? 交通事故?」

「昨日、利用者のおばあさんに杖で叩かれたんです」

 意外な答えに、素であ然としてしまう。

「え?」

「介護の仕事をしてるって言うと、下の世話が大変だろうとか、入浴の手伝いが重労働だろうとか言われますけど」と貴島さんは袖を戻しながら言った。「そんなの、たいしたことではないです。すぐに慣れます。一番大変なのは利用者さんからの暴力や暴言です。体の痛みもありますけど、それより何より心が折れそうになります」

「何で、そんな……」

「このおばあさんの暴力は、認知症による不安症状の現れです。ただ、そうでなくても、私たちがお相手するのは、事故や病気や加齢で今まで当然にできていたことができなくなった方々ですから。できない自分を責めているし、どこかで恥じています。その手伝いにきた人のやることなすことは気に障るんですよ。自分のできなさを指摘されているように感じるんだと思います」

「だって、感謝するべき相手でしょう?」

「私たちはボランティアじゃないですよ。仕事としてそこにいるんです。お金のためにそこにいるんです。そう思えば、利用者さんの要求は高くなる。自分が望むようにできなければ腹も立つんでしょう」

「いや、でも、だからって……」

 理不尽な暴力に本気で腹が立って俺が声を荒らげかけたとき、店員がやってきた。瀬良が小さく手を上げる。

「ごゆっくりどぞー」と瀬良の前にチャーハンを置いて、店員が去っていく。

 レンゲを取って短く手を合わせた瀬良は、俺たちを気にせずチャーハンを食べ始めた。お先に、の一言さえない。よどみなく流れた一連の動きは洗練された何かの所作に見えたほどだ。かつて文豪が『ひらりひらり』と表現したスプーンの動きはこういうことかと、瀬良のレンゲの動きを見て思う。育ちがいいのだか、悪いのだか。

「でも、本当にやっかいなのは」

 チャーハンを食べる瀬良をどこか微笑ましそうに見てから、貴島さんは俺に視線を戻した。

「利用者さん本人より、そのご家族です」

「家族ですか?」

「ええ」

 さっきと同じ店員が、俺の前に酢豚定食が載った盆を、貴島さんの前に麻婆豆腐定食が載った盆を置いて、また「ごゆっくりどぞー」と言い残して去っていく。貴島さんと黙って苦笑を交わした。他が同じなので、メイン料理の皿だけ貴島さんと交換する。

「たとえば」

 酢豚を正面に据えた貴島さんは、箸を取って、話を続けた。

「今、目の前で利用者さんがつまずいて倒れようとしている。もう手を伸ばしても引き上げられそうにない。そんな状況があったら、私は迷いなく利用者さんの体の下に自分の体を投げ出します」

「すごい自己犠牲ですね」

「いえ、いえ。自己保身ですよ」

 豚肉を頰張って、貴島さんは笑った。

「だって、自己犠牲に走るほどの給料、もらってないですよ、私たち」

「いや、給料は、まあ、あれでしょうけど、でも、自己保身ですか?」

「私たちが怪我をしても問題はありません。ただ、利用者さんが怪我するようなことがあれば大問題です。利用者さんのご家族は、どこかで介護者を疑ってるんです。いえ、疑っているは言いすぎかな。でも、信用しきってはいない。自分が大事に思うその人を雑に扱ってるんじゃないか、意地悪をしてるんじゃないか、暴力を振るってるんじゃないか。利用者さんのほうが圧倒的に弱者だという先入観もあるんでしょう。実はそうでもないんですけどね。お年寄りでも、力の強い男性に突かれたら、私なんて吹っ飛んじゃいます。でも、利用者さんの体に擦り傷一つ、あざ一つあったら、そら見たことかって言わんばかりの、猛烈なクレームがくる。もちろんこちらとしては十分に注意を払っています。それでも、どうしようもないときってあるんですよ。利用者さんは動くわけですし、私たちも完璧に目を離さずにいることはできないし」

「それはそうですよね」

「利用者さんにあざができるくらいなら、自分が骨折したほうが楽なんです。その後の対応の手間と心の負担を考えると」

 絶句したあと、深々とため息が出てしまった。

「骨折より、心が折れるほうが痛いですもんね」

「ああ、わかりますか」

「わかります」と俺はうなずいた。「そうっすか。体を投げ出しますか」

「半ば冗談ですけど」

「ああ、冗談っすか。よかった」

「残りの半分は本気です」

 茶目っ気のある笑顔が初めて見せてくれた素の表情に見えた。テーブルの上のスマホに手をやって時間を確認した貴島さんが食べるスピードを上げた。もりもりとご飯を食べる人は見ていて気持ちいい。午後からのタフな仕事もある。できるなら、そのままもりもり食べさせてあげたかったけれど、そういうわけにもいかない。俺は捜査にきているのだ。

「城山さんにもそういう人がいたんでしょうね」

 貴島さんが箸を止めた。俺と目が合う。

「もちろん、いたでしょう?」と俺は聞いた。

 自分は喋りすぎたのか。そんな後悔に似た表情が貴島さんの顔を瞬時、よぎった。これまで聞き込みで何度も見てきた表情だ。そのたびに相手を裏切ったような気分になる。今回も申し訳ないとは思ったが、ここは押し切る場面だ。ここを逃せば、貴島さんは『告白ゾーン』から離れてしまう。

「誰にだっていた。城山さんにもいた。ですよね?」

「そうですね」

 貴島さんはうなずいた。

「ええ。そうです。城山くんが担当する利用者さんの中にも、ちょっとうるさいご家族の方がいたようです」

「その話、さっきは出なかったですけど」

「事業所には報告してないと思います。たまたま私とランチをしているときに、電話がかかってきて。私のほうまで声が漏れてくるくらい強い語調だったので、気になって聞いてみたら、利用者さんのご家族からのクレームだって」

「いつごろの話です?」

「先月の半ばくらいだったかな」

「クレームの内容は聞こえました?」

「いえ、そこまでは」

「どんなクレームだったか、城山さんは何か言ってませんでしたか?」

「聞いたんですけど、よくあるやつですってはぐらかされました。ああ、よくあるやつなんだなって、私も納得しちゃいました。小さな怪我をさせたとか、ものかお金かがなくなったっていう利用者さんの言い分をご家族が信じちゃってるとか」

「よくあるんですね、そういうのが」

 その仕事の大変さに思いを馳せながら、俺は言った。

「その人の名前は?」

「それも聞きませんでした」

 それは二人にとっては日常で、特別に取り上げて話題にするほどの話ではなかったということだろう。嫌な話だとわかるからこそ、何でもない顔で苦笑を交わしてやりすごす。そういう場の雰囲気はわかる気がした。

「どうぞ、召し上がってください」と俺は言った。

 促されて箸を動かしてはいたけれど、貴島さんに前ほどの食欲は戻らなかった。俺が食事を終えるのを待っていたように「もう時間ですから」と貴島さんは席を立った。おかずとご飯と副菜のすべてが少しずつ残っていた。

「ありがとましたー」と店員に送り出される貴島さんの後ろ姿を見送る。その足取りは入ってきたときより重くなっている気がした。

「なあ」と俺は隣の瀬良に聞いた。「それ、最後まで食う?」

 最初に食べ始め、俺と貴島さんが会話をしている間も一人、ひらりひらりと食べていたはずなのに、チャーハンはまだ半分以上残っていた。瀬良は困った顔で俺の胸の辺りを見ている。

 いや、知らんがな。

「店、混んできたから、俺は先に出るわ。向かいのコンビニにいるから、終わったら、きな」

 店の入り口には席を待っている人が列を作っていた。相席をさせる店のようなので、俺が出れば、待っている人が入れるだろう。俺は伝票を持って席を立ち、レジで会計をした。お釣りを財布にしまいながら振り返ったら、すぐそこに瀬良がいてぎょっとした。目をやると、俺たちがいた席には、すでに他の客が通されている。そのときになって、相席が嫌だったのだろうと気がついた。とっさに悪いことをしたと思い、そう思った自分が腹立たしくなった。どう考えても俺は悪くない。俺も無意識にこの美形に好かれたいと思っているのだろうか。

 何かを言いたそうに瀬良が俺の首辺りを見る。

 その手に財布があるのに気がついた。

「いいよ。チャーハン代くらい」

 中華料理屋を出て、向かいのコンビニに入った。そうするつもりだったので、コーヒーが飲みたくなっていた。ドリップコーヒーを二つ買い、五分だけのつもりでイートインコーナーに腰を下ろす。

「座ったら?」

 また几帳面な背後霊のようにずっと俺の後ろをついてきた瀬良に言う。

 瀬良が少し迷ってから、一つ空けた椅子に腰を下ろした。

 軽くイラッとする。座るなら隣に座ればいい。そんなつもりはなかったのに、自分がひどくいやらしいことを後輩に命じたような気持ちになる。

 が、そんなことに腹を立ててもしょうがないのだろう。存在そのものが少しずれているのだ。一つ一つの行動に怒るほうが損をする。

 俺は瀬良の前にコーヒーを置いた。瀬良がちらりと見て、また目を伏せる。

「いいよ。おごりだ。ペアの記念に」

 俺は自分のカップを手にして、瀬良のほうへ掲げた。瀬良もカップを手に取った。が、掲げはせずに、両手で俺に向けて差し出す。

「飲まない……ので」

 その答えに虚をつかれた。

「あ、飲まない。コーヒーは飲まないのな」

 瀬良がうなずいたようだ。

「ああ、何がいいか、聞けばよかったな」

 俺の作り笑いが白々と漂う。

 飲めないのではなく、飲まないらしい。たとえ、今日初めてペアを組んだ先輩が気を利かせておごってくれたコーヒーでも、飲まないらしい。

 段々、自分のほうがおかしい気がしてくる。コンビニのドリップコーヒーをおごることも、昨今ではパワハラとかセクハラとかの類いになるのだろうか。

 さらに押し出され、俺はカップを受け取った。

「少しは喋るんだな。まったく喋らないのかと思ったよ」

 嫌みに響かないよう気をつけながら、渾身の嫌みを込めて言ってみる。

「仕事です、から」

 仕事でなければ口もきかない?

「いやいや。仕事になってないよ。城山さんの関係者に話を聞くのが俺たちの仕事。お前、今日、仕事した?」

 瀬良の反応はわかりにくかった。正論に恥じ入って、うなずいたきり顔を伏せたようにも見えるし、その答えを自分なりに考えて、首をひねったようにも見える。

「いや、してないよ。してないだろ? してないからな?」

 こくんと、今度はどうやらうなずいたらしい。とするなら、さっきのは本当に首をひねったのか。

 呆れた気分でコーヒーをすすり、少しばかり思い直す。

 確かに、ほとんど喋ってはいないが、まったく仕事をしていないわけでもない。

「どうしてわかった?」と俺は聞いた。「貴島さんが隠し事、っていうか、全部は喋っていなかったこと」

 呟いた言葉はよく聞き取れない。

「職務中はしっかり喋ろう。な?」

「忙しそうで」とそれが精一杯の声量であるような力み方で瀬良が言った。

「忙しそう?」

 俺は貴島さんが事業所に戻ってきたときの様子を思い出した。所長に刑事が話を聞きたがってると言われても、貴島さんは自分のデスクで忙しそうにしていた。ひどく恐縮しながら、俺は質問をさせてもらった。俺の話を聞いているときも、貴島さんはデスクを見回して様々な書類を手に取り、そのチェックをしていた。事業所の中でも一際忙しい人なのだろうと思った。

「確かに忙しそうだったけど、それが?」

「和泉さん、見ないで」

「ん?」

「不自然な……でした」

 少し考え、瀬良の言わんとする意味をようやく理解した。

 あのとき、貴島さんは忙しそうにしていた。それは聴取にきた刑事と目を合わせたくなかったから、そうしていたように見えた。瀬良はそう言いたいのだろう。

 自分が持っている情報は話したほうがいいようにも思える。けれど、事業所長は事件に関わるのを嫌がっているように見えるし、自分だって関わりたくはない。そう思えば、自分の情報は訪問介護員にはよくあることでしかなくて、警察にわざわざ言うほどでもないように思える。

 そう考えた貴島さんは無意識のうちに俺の視線を避けた。俺にはさほど不自然には見えなかったが、瀬良は気がついた。

「アイドルのことは? 貴島さんがアイドル好きだってわかってて聞いたよな?」

「スマホの、壁紙。写真」

 貴島さんはテーブルに置いたスマホで時間を確認した。時刻の背景がどんなものだったか、俺は覚えていなかったが、露骨にアイドルの顔がばーんと出てきたわけではないと思う。それなら俺も気づいている。

「どんな写真だった?」

「ステージ……遠くから」

 ステージにいるアイドルを遠くからとらえた写真。そういう意味だろう。それなら俺の目には何かよくわからない写真にしか見えなかったかもしれない。

「すごいな。よく気づいたな」と感心して、俺は言った。

 驚いた目で瀬良が俺を見た。瀬良と目が合うのは初めてだった。ガラス玉のように透き通った目をしていた。純真な幼児のような目だ。だからわかった。瀬良は俺に褒められたことに驚いているのではなかった。貴島さんの不自然さやスマホ画面のアイドルに俺が気づかなかったことを驚いていた。

 むかっ腹は立ったが、現に瀬良が気づいたことに俺は気づかなかったのだ。どう思われても仕方がない。

 やけになってコーヒーを一口、飲み下したところで、スマホに着信がきた。宮地班長からだった。

「戻れ。犯人の面、拝ませてやる」

 その言い方だと、顔しかわかってないのだろう。ということは……。

「防カメですか?」

「ああ」

 耳にはイヤホン。目はスマホ。周囲に関心を持たない都市生活の中で、警察が頼りにするのは、街中に散らばっている防犯カメラだ。以前は、現場周辺の防犯カメラから収集した映像を所轄署の捜査員がチェックした。俺も何度かやったことがある。神経を使う、しんどい作業だ。が、今では県警本部に情報分析を専門とする部署がある。さすがに仕事が早い。

「すぐ戻ります」


6

 現場となったマンションと隣のマンションとの間に通路のような細い道がある。階段の手すりを乗り越え、しばらく階段下で時間をすごした犯人は、その道を左右どちらかに向かっているはずだった。そして、もし右に向かったのなら、犯人はT字路にぶつかる。右に向かえばコンビニ。左に向かえばドラッグストア。

「コンビニか、ドラッグストア。どちらかにしか映っていない人を洗い出しました」

 刑事部刑事総務課捜査支援分析室の西田という若い係員が報告した。専門だから作業効率は違うのだろうが、やること自体は俺たちとさほど変わらないらしい。優しげな垂れ気味の目がかわいそうなくらい充血している。

 歩行者と一口に言っても、人の動きは不規則だし、ドラッグストアとコンビニの間で、別の建物や道に入った人もいる。その逆もある。おそらく該当するすべての人の前後の足取りまで他の防犯カメラ映像で追いかけたのだろう。

「その中で一人、怪しいのがいました」

 こられるものは、全員、捜査本部である中山署の会議室に戻ってきている。前にはモニターが据えられていた。

 そこに一人の男が映し出された。後ろの席にいた人たちが立ち上がり、前のほうにやってきて腰を落とす。俺も思わず席から身を乗り出した。映像の端にある時刻が正しいなら、男がドラッグストア前の道を通ったのは、二十三時十六分。小林さんが一一〇番通報した五分ほどあとだ。

「ノイズの除去と補正をかけて、画像としてならもう少し明確なものにできると思います」

 古い防犯カメラなのか。目の粗い白黒の映像だった。ニット帽と眼鏡のせいで、顔立ちがよくわからない。小柄だ。年齢は四十代から五十代。動きと併せて考えても、若々しさはないが、年老いてもいない、という以上の特定は難しい。背中にバックパック。普通のスラックスに無地のシャツ。季節から考えれば、薄着すぎる。返り血がついてしまった上着はバックパックにしまったのか。足下がスニーカーかどうかまでは確認できない。一一〇番通報受理後に周囲には緊急配備が敷かれたし、この薄着なら警察官の目に留まるはずだが、どうにかしてうまくすり抜けられたようだ。

「こいつがホンボシかどうかは別として」と映像を一時停止にして宮地班長は言った。「是非、一度、こちらにお越し願ってお話しさせていただきたいと思っている」

 宮地班長がこういう話し方をするときは、捜査が煮詰まってきたと感じたときだ。わざと持って回った言い方をすることで、自分自身の入れ込む気持ちをそらそうとしている。

「さて、このデート、アレンジできそうなやつはいるか?」

 一瞬の間を置いて、俺は手を上げた。宮地班長がうなずき返すのを待って、立ち上がる。

「被害者の城山さんは、訪問介護の利用者家族ともめたことがあったそうです」

 その情報をどう判ずるべきか。捜査員たちが思考し始めたのを感じる。

 それだけか、と聞くように、一度視線を下げてから、宮地班長がまた俺を見る。

「先月半ば、電話で強いクレームがきたのを同僚が聞いています。相手が誰かはまだわかっていませんが」

 宮地班長がわずかに目を細めた。

 訪問介護。利用者の家族。クレーム。

 それらのワードが事件にしっくりくるか、瞬時、吟味したのだろう。

 包丁。強い殺意。計画性。

「当たる価値はあるな」

(つづく)



終わりに

皆様、和泉と瀬良の出会いをお楽しみいただけましたでしょうか。noteでの公開部分は、ちょうど「イージー・ケース」の前半、約半分ほどになります。ここから、想像を超える事件の真相が暴かれるのですが、そこはぜひ今作をご購入してお確かめください。

和泉の聴取術と瀬良の観察力。互いの優れた能力は、2話以降も存分に発揮されます。「イージー・ケース」を含む3つの物語が収録された『こぼれ落ちる欠片のために』は11月5日(火)の発売です。既に予約販売が始まっておりますので、確実にご購入されたいという方は、書店店頭や各ECサイトでご予約をお勧めいたします。各ECサイトへのリンクは、以下のページからご覧になれます。


また、以下のリンクから、『こぼれ落ちる欠片のために』の刊行を記念して行われた本多さんへのインタビューを、全文読むことができます。今作を執筆しようとしたキッカケから、執筆中の舞台裏など盛りだくさんの内容です。ネタバレもありませんので、ご興味のある方はこちらも併せてお読みください。


『こぼれ落ちる欠片のために』は、皆様に心揺さぶる結末をお届けします。ぜひ、お近くの書店さんでお買い求めください。


◉書誌情報
『こぼれ落ちる欠片のために』
著者:本多孝好
2024年11月5日発売/2,035円(税込)
352ページ/四六判ソフトカバー
装画:げみ 装丁:太田規介(BALCOLONY.)
ISBN:978-4-08-771884-3

◉収録作
イージー・ケース
ノー・リプライ
ホワイト・ポートレイト(書き下ろし)

◉著者略歴
本多孝好(ほんだ・たかよし)
1971年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。1994年「眠りの海」で第16回小説推理新人賞を受賞。1999年同作を収録した『MISSING』で単行本デビュー、「このミステリーがすごい! 2000年版」でトップ10入り。2003年『MOMENT』、2004年『FINE DAYS』で2年連続吉川英治文学新人賞候補。2005年『真夜中の五分前』で第132回直木賞候補、2010年『WILL』で第23回山本周五郎賞候補。他の著書に『MEMORY』『チェーン・ポイズン』『dele』『アフター・サイレンス』などがある。

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