【小説】会社の近くに住む 2-21
遠くの島の二人組が立ち上がって、ドアのほうに歩いていく。こちらを見ているから、ヘッドホンをしたままあっちからもわかるように大きく頭を下げた。向こうの二人も小さく会釈を返してくる。片方がドア近くのスイッチに触れて、二人がいた島の照明が消えた。二人は出ていって扉が締まった。音楽で聞こえないけれど、ドアが閉じて一秒後に動くオートロックの音が頭の中で再生された。
自分の島の上についた照明以外がすべて消えて、自分の島から奥に向かって、遠くなるほどに暗くなっていた。
なんとなく、海に向かっているようだなと思う。白っぽい机が横に並んで、通り道で途切れて、また横に暗い中の白が並ぶ。それが奥に何列も続いていく。その机の島のひとつひとつが波立ちのようで、その白のとぎれとぎれになった横の線が奥の方にまでだんだんに続いた景色は動かないけれど、頭の中には音楽が鳴っていて、リズムが刻まれてリフレインと歌声も重なっていく。
フロアの一番奥は、透明の壁で仕切られた三つの会議スペースと、白いスチールの壁で区切られた倉庫になった場所がある。会議スペースの窓の奥に外の空の暗さが見えていた。
広いなと思う。とりあえず机の数は目だけでは数えきれない。こんなに広くて、七時間くらい前にはここに百人以上がいて、今は俺ひとりだけなのだ。
なんとなくバカらしい気分になってくる。何がバカらしいのかなと思ったけれど、とりあえず目の前が広すぎるのだろう。昼間は百数十人がいるには少し窮屈だなと感じるフロアだけれど、俺がひとりでいるには広すぎるのだ。
ここだって世間的に見ればさほど大きな会社というわけでもないのだ。社員は百五十人もいない。たまにオフィスに顔を見せるいかにも一癖ありそうなおじいちゃんが創業者で、まだ会社ができて二十年くらいだった。アパートの一室に三人で起業して、十年経たずにナスダックジャパンに上場して、そこから五年もせずに東証一部に上場した。去年NTTデータの連結子会社になったけれど、取締役が増えた以外は、子会社になって何が変わったということもなかった。株式の大半を持っていた創業者たちが高齢になってきて、会社の将来を考えて安定的な株主を探したということだったらしい。去年までそんな株主構成だったような、今だってベンチャー企業だと言えなくもないくらいの会社なのだ。
それでも、目の前のひたすらに空席が埋め尽くしている空間は、ひとりが残りのすべての空席を眺めているには、どうしたって広々としすぎたものに感じてしまう。フロアの端にいて全体が見渡せてしまっているからそう思うのかもしれない。フロアの端から端で百メートル近くはあるんじゃないかと思う。そして百数十席の空席のうち、俺の事業部は二十人くらいで、それ以外の人の八割以上は顔と名前の一致しない人たちなのだ。さっき帰った二人組だって名前も知らないし何の仕事をしているのかも知らない。
バカらしい気がするのは、この疲労感を誰とも共有していないことが虚しかったりするからというのもあるんだろうなと思う。高円寺に住んで新宿の会社に通っていた頃は、自分が毎日全身をだるくさせながら働いていることに何の疑問も持っていなかった。あの頃は、みんなでくたくたになっていたというのもあるのだろう。開発メンバーは全員それぞれの終電の時間まで会社にいて、くたくたになりながら、会社としてこの状況を乗り切ろうというような、悲壮感のような一体感があった。そういうプロジェクトの途中にいて、やりきるしかないのだから、やれることをできるだけやっているという感じだった。
今隣に羽田さんがいればいいのにと思ったりはしないのだ。さっさと帰って休むなり遊ぶなりしていて欲しい。反対の隣に吉井さんがいたらいいのにとも思わない。さっさと帰って休むなり奥さんと楽しくやるなりしていて欲しい。別に俺だけが苦労しているわけではない。吉井さんにしろ羽田さんにしろ、充分くたくたになりながら仕事をしている。別に誰と比べているわけでもなく、ただ目の前の百以上のデスクが無人のまま並んでいる光景を前にして自己憐憫に浸っているだけなのだ。
みんなと一緒に帰らないのはどうしてなんだろう。羽田さんが帰るときに一緒に帰ればよかったのだし、もうちょっとやりたい気持ちだったとしても、吉井さんと一緒に帰ればよかったのだ。もうちょっとやろう、もうちょっとやろうと、さすがに寝ないとまずいかなと思うところまでやってしまうのはどうしてなんだろう。
今日は誰もいなくなるのが早かった。俺の部署では佐藤さんが十時半くらいで帰っていったし、さっきの二人も十二時前で帰ってしまった。
けれど、俺だって高円寺に住んでいてここに通っていた頃は、仕事で終電を逃したことは一度もなかったのだ。新宿の会社からこの会社に移ってきてからは、終電で帰ったことすらなかった気がする。四ツ谷の会社に移った頃の自分には、新宿の会社の頃が毎日終電だったのは本当によくなかったし、羽田さんに四ツ谷に来てそんなふうじゃなくなってよかったですという感じを出してあげたいから、なるべく早く帰ろうという意識すらあった気がする。会社の近くに越してきてからだって、せいぜい遅くて〇時くらいまでだった。こんなふうな、家が近いんだし一時まででも二時まででも仕事したらいいんだという感覚はなかったのだ。どうしてこんなふうになって、しかもそれを毎日みたいに続けているのだろう。彼女と別れてからとはいえ、残業と彼女のことは関係ないはずで、やっぱり自分はちょっとおかしくなっているのだろうと思う。
印刷ボタンを押して、ヘッドホンを外して、プリンターの方に歩いていく。
目の前が暗くなったことでの気分的なものなのだろうけれど、さっきよりも静かさが強まった気がする。プリンターがたてる音がずいぶん響いている。昼間にはかしゃかしゃとせわしない音に感じられていたけれど、いくつもの重なり合う音がそれぞれに余韻を引き伸ばされて、そのせいで、機械の内側でいろんな部品がムダのない積み重ねとして動きまわっていることがはっきりと伝わってくる。それによって、差し込まれた紙が箱を通って印字されて出てくるという見慣れているはずの現象が、自分の手では再現しようのない異様なことがそこで行われているみたいに感じられてくる。
相手の言葉が響くとかいうけれど、こんなふうにどうしようもなく静かなら、音を立てるだけでその音は響いてくれる。そして、響いているだけで、その音を立てる営みの感触がそのぶん過剰に伝わってくる。その過剰さによって、いつもとは違ったふうに、その営みに奥行きや重さのようなものを感じとってしまうのかもしれない。
紙を取って席に戻った。自分のキーボードの立てる音が響いているのも、重たくて粘るような感触が増した気がする。
不自然だなと思う。自分の部屋はワンルームだから静かなのも自然なことだと思いようもあるけれど、この場所がこんなにも静かなのは不自然な気がしてしまう。けれど、築年数の浅い密閉されたビルにひとりでいるのだから、静かでも当たり前なのだ。遠くのサーバールーム以外の空調は切られているし、電灯も俺の真上以外は消えていて、会社の決まりでみんな退社するときにパソコンは電源を切って帰っている。自分のすぐ近くに、ほとんど音を発していない暗い空間が数十メートル広がっている。自分の部屋よりもはるかに静かなのだろう。
この静かさが気持ち悪かったりはしないのだ。不自然だなと思うけれど嫌な感じはしない。ひとりならいいのだ。人がいるのに静かな場所の方が気持ち悪い。図書館の静かさはいつでも好きじゃなかった。このフロアでも、百人以上がいるのに誰の話し声も聞こえない瞬間があったりして、そういうときは気味が悪い。
今だって、誰もいないのではなく俺はいるのだ。俺しかいないのに俺が黙って気配の立たない指先だけの作業に没頭しているから、キーボードの音ばかりが聞こえて、人の声も人が何かをしている気配もなくなってしまっている。
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