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【小説】会社の近くに住む 2-14
「まだやってくんすか」と吉井さんが声をかけてきて、「そうっすね。もうちょっと」と返した。
俺の方はなかなか作業が進んでいなかった。画面の右下の時間を見るともう十時を過ぎていた。
吉井さんは帰り支度をして「お先です」と申し訳なさそうに言う。
俺も顔をあげて「お疲れです」と言った。そのまま吉井さんがくたびれた感じで歩いていくのを少し見送っていた。
別にいいのになと思う。俺のことは気にしないでさっさと帰ればいいのにと思う。俺よりも吉井さんの方がよほど疲れているのだ。俺は八時十分に起きて、朝飯を食ってコーヒーを飲んで、電車に乗る必要もなければ、駅に向かう必要すらもなく、通勤に疲れる間もなく会社に到着するのだ。どうしようもなくだるくても、昼まで耐えれば昼休みに十五分ベッドに横になれるし、夜の休憩でもさっきみたいに三十分ベッドで寝られたりする。
吉井さんは川崎に住んでいるけれど、いつも何時に起きているのだろう。今から帰るにしても、家に着いたら日付が変わるくらいの時間なのかもしれない。座れるわけでもないなら、電車に乗っているだけでもそれなりに疲れるだろう。実際、吉井さんはいつもなかなかへろへろな感じで過ごしている。仕事はじっとしがみついて集中しているけれど、昼休みはだるくてベローチェでコーヒーとサンドイッチくらいですませて身体を休めていることも多いらしい。家に帰って夜遅くに飯を食べるからというのもあるのだろうけれど、だるくて身体があまり活発に活動しないところで、頭ばかりが疲れてしまうから、十一時半だと食欲もわかないし、そうやっていつまでもだるさが抜けないままで毎日を過ごしているのだろう。
俺にしても、疲れているうえで寝不足なことが多くて慢性的にだるくはあるけれど、食欲が落ちたりしたことはない。身体のダメージは吉井さんの方がはるかに大きいのだろうと思う。一、二時間労働時間が長いくらいなら俺の方がよほど楽なのだ。
吉井さんは家に帰れば奥さんがいる。奥さんだって、イベント系の会社とはいえ、そこまでは遅くないだろう。帰ってから飯を一緒に食べるのだし、こんなに残業しないでさっさと帰ればいいのだ。疲れているといろんなことが面倒くさくなったり、気持ちが動きにくくなったりする。俺は仕事の後に誰にも会わないし何もしないから、消耗してしまったからってもったいなくもないけれど、吉井さんは家で過ごす時間を消耗した状態で過ごしてしまうのはもったいないのだ。
俺だって奥さんがいれば、こんなに残業しないでもっと早く帰っているのだと思う。帰ってもやることがないし、仕事はいくらでもあって会社としても残業を推奨している感じだから仕事しているだけなのだ。
かといって、吉井さんからすれば、俺がまだやっているからとずるずる残業してしまっているところはあるのだろうなと思う。吉井さんが主担当で受け持っている顧客にサポート役でついてくれている先輩という感じなのだし、気は遣うのだろう。
吉井さんとも一緒に仕事をしだしてから一年ちょっとくらいになった。歳は吉井さんの方が少し上だけれど、社歴では俺の方が一年くらい長かった。もともとはこの会社の社員ではなく、この会社と別の会社の合弁会社の社員だったところから転籍してきたし、その前はIT系の仕事をしていたわけではなったということでは、俺と吉井さんは似たような経歴だった。似たような経歴で、一年前の時点で俺は部署内でエース扱いされている状態だった。
一緒に案件を受け持っているとはいえ、俺は吉井さんの顧客に関連する仕事をそんなにたくさんやっているわけではなかった。顧客から何か新しい要望が出てきても、吉井さんが全部やってしまうし、それを分担してあげようとするわけでもない。吉井さんがやっていることには目を通しているし、何かあればいろいろ話もするけれど、実際に手を動かしているのはほとんど吉井さんだった。その顧客以外にもいろんな顧客が使っているアプリケーションをその顧客の要件のために機能追加したいときに、俺が仕様変更をやってあげたりするくらいだった。全社的に利用しているアプリケーションを変更するときには、他の顧客に影響がないように考えないといけないし、他の人と調整したり、全社での報告会で変更内容を説明しないといけない。今まで会社全体としてどういう考え方でやってきたとか、どういう経緯でこのアプリケーションが今のような形になっているのかとか、変更による影響範囲の大きさと変更で得られるメリットとのバランスのとり方だとか、そういうことを考えないといけない。そういう仕事にしても、俺がつきながら吉井さんにやってもらうこともできるのだろうけれど、おいおいやってもらえばいいかと思って、今は俺がやってしまって、やったことの内容を説明するだけにしている。
その程度だから、俺としてはもっと仕事をこっちに振り分けてくれてもいいのになと思ったりもしている。けれど、吉井さんからすれば今くらいでも充分だったりするのだろう。吉井さんはよく「正田さんがいてくれるっていう安心感でやれてるだけですよ」というようなことを言う。この一年で、吉井さんは多くの他の社員よりも面倒くさいアプリケーションを作って、それをしっかり運用できるようになっているけれど、毎回俺が確認して一緒に動作確認しているから、これで大丈夫だと思ってどんどん先に進めていけるという感じはあるのだろう。
俺にしたって自分がまだこの仕事のことが全然わかっていない頃、羽田さんが何を聞いても一生懸命答えてくれて、俺がやったことをどれもちゃんと確認してくれて、そのうえでいいんじゃないと言ってくれたから、きっと大丈夫なんだろうと思って、どんどん仕事を進めていけたのだと思う。自分では何を見落としているかもわからなくて大丈夫なのか確信がなくても、今やろうとしていることについては、俺と羽田さんとで大丈夫だろうとなったからいいのだと思えたし、間違っていたとしても、どういうことをふたりとも見落としていたのかを一緒に確認するみたいにして反省できるから、失敗するのもあまり不安じゃなかった。何か思ったら何でもさっさと羽田さんに聞いてみて、話が進んで「そういうふうにできたらいいよね」ということになったら、さっさとそれを試して、いろんなことをとにかくやってみた。二、三年くらい、そんなふうに、何も不安に思わずにがむしゃらに仕事をしていたのだ。たくさん失敗もあったけれど、失敗も含めてどんどんといろんなことを経験できた。吉井さんにいろいろ話せるのは、そうやっていろいろ経験させてもらったからなのだ。
自分が今多少は周囲の人の役に立てているのは羽田さんのおかげだと思っているけれど、同じように吉井さんも、ほとんど自分一人でややこしい案件を稼働させられているのを俺のおかげだと思っているのだろう。そして、そんなふうに思っているからこそ俺に気を遣うのだろうし、俺が早く帰ってあげないと帰りにくいところがあったりはするのだろう。
もちろん、そういう気持ちもありつつ、残業代が欲しいからやっているというのもあるのだとは思う。吉井さんは残業中でもかなりきっちり集中して仕事しているけれど、部署内にはいかにもそんな理由でのんびり長々と働いている人が何人もいる。むしろ、会社全体がそういう感じでもあるのだろう。
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