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【小説】会社の近くに住む 2-16

 今やっていることにしても、自分の客の案件だから俺がやるしかないことではあるのだけれど、今やらなくてもいいことではあったりする。来年の二月が期首で、そこで仕訳の切り方が変わるから、新しい仕訳ルールで会計データを出力できる帳票を用意しておくということになっていて、それを作っている。けれど、まだ十月なのだ。一か月前に客に渡して動作確認をしてもらうとしても、まだまるまる二か月は余裕がある。わざわざ残業してまでやることではないのだ。
 そして、吉井さんが帰る三十分以上前からだろうけれど、データ集計のプログラムにうまくいかないところがあって、そこでずっと止まっている。どこかにくだらないミスがあるだけなのだろうけれどそれがなかなか見付からない。どこがおかしいのか見当もつかないから、ごちゃごちゃとした処理の一部分ずつを変えて、それでエラーが解消されるかどうかを試していた。
 こういうときは、やっぱりちゃんと勉強しないとダメなんだなと思う。原理とか仕組みがわかっているのと、自分が知っているうまくいくパターンをいくつか組み合わせただけの理解とでは着眼点からして違っているのだろう。
 けれど、当てずっぽうでも、どこがおかしいのか見付けられたなら、その部分をまた当てずっぽうにいろいろと書き換えていけば、それでそのうちうまくいく方法は見付かってしまう。いい本を探してきて勉強しなくても、今やっている仕事を片付けるだけなら、今できることでやみくもに試行錯誤して何とかしてしまう方が早いのだ。
 もちろん、目の前にある問題を今だけどうにかできればいいというような考え方こそがよくないものなのだろう。今日出来上がらなくてもいいのだから、何日間か使ってでも、ある程度仕組み自体を勉強した方がいいのだ。そうすれば今みたいに三十分以上わからないわからないとやみくもに試行錯誤するムダな時間をこれからは過ごさなくてすむようになる。足りない能力のせいで毎回ムダに時間を過ごすより、一回能力を上げることに時間を使ってしまって、それ以降のムダな時間を減らした方が長い目で見れば時間の節約になるのだろう。
 けれど、それをわかっていても、今やっているやり方でできなくはないはずだからとそのままやってしまう。仕事中の時間は勉強のための時間ではないのだから、仕事で手を動かしつづけなければいけないと思っているところはあるのだろう。かといって、家に帰ってから自分の時間で勉強しようという気にもならないから、こういうことがあるたびに自分の働き方はよくないなと思うことになる。
 吉井さんが帰って、俺の部署で残っているのは三人だけになっていた。林田さんと佐藤さんで、二人ともよく遅くまで残っている人たちだった。その二人にしても既婚者だった。さっさと帰ればいいのになと思う。
 音楽を聞こうと思って机の引き出しからヘッドホンを出した。アイポッドからイヤホンを抜いてヘッドホンにつないで、ヘッドホンを頭にのせる。ボタンを押すと夕方に休憩したときに少し聞いていた曲が表示されて、少し迷ったけれどそのまま再生した。
 ヘッドホンの中でちょうどいいくらいの音量で音楽が流れ出した。けれど、なんとなくだるかったのもあって、もう少し音を大きくする。少しうるさいくらいにして、軽く頭を動かしながら、作業に集中しようとする。だるさで気分が落ちてくるから、音楽の気分を自分の気分にするようにして、無意識で音楽に浸って意識を仕事の続きだけにする。手を動かし続けて、画面の中の実行結果が吐き出される文字の動きを見詰め続けて、気が散ってしまわないようにする。
 だんだんと、ただ仕事の続きが思い浮かび続けるだけの空っぽな感じになってくる。けれど、思い浮かんだ通りに手を動かしてエンターキーで実行してみるとやっぱりエラーになる。それでエラーになるのなら次はここをチェックしようと思い浮かぶままに手を動かす。またエラーになって、また他に試せることを思い浮かべる。
 そうやっていればそのうちにうまくいくのだ。なかなかうまくいかないときは、三時間とか四時間とか、うまくいくまでいろんなことを試し続けていく。そもそもの出発点から間違っていて、どうやったってうまくいかない場合もあるけれど、しっかり集中できている状態になっていれば、そういう場合も、そこまで時間がかからないうちに、そもそもダメなんだなということに気が付く。できそうだしできるはずなのに何かちょっとしたことを見落としていることでうまくいっていない場合が一番厄介だったりする。
 林田さんが立ち上がるのが視界に入って、顔をあげるとこちらに頭を下げたから、俺もヘッドホンをしたまま軽く頭を下げた。



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