【小説】会社の近くに住む 2-9
会社に戻って、打ち合せ資料を見ながら、書くことがないなと思いながら議事録を書いていると、谷口さんが資料をもってこちらの方に歩いてくるのが目に入った。それを見ていると、谷口さんも俺の方を見た。谷口さんはそのままこっちの近付いてきて、ひとつ手前の島にいる英治さんに声をかけて、資料を渡して何かを話し始めた。
俺はフロアの一番端の島にいて、壁を背にする席にいるから、モニターを見ている視界の中には、フロア中の百人以上の姿が見えていた。俺は仕事中、軽く背を逸らせた前傾姿勢になって、モニターを少し見下ろすようにしていていることが多かった。考えたりするときにはモニターから焦点を外しているし、そういうときはモニターの向こう側をぼけっと眺めているような状態になる。だから、何か違和感のある動きをしている人がいると、そこに意識が引っ張られてしまうし、違和感でなくても、普段なんとなく気にかかっている人が動いていたりしても、意識しないうちにそこに視線がいってしまう。谷口さんはここ数か月、そういう視線のいってしまう相手だった。
英治さんが下を向いて資料を凝視しているのに、谷口さんは背筋を伸ばしたまま手ぶりをつけて喋っていた。今は夕方近くでけっこう騒がしくて、谷口さんの声はほとんど聞きとれない。相変わらず早回しのように動く人だなと思った。身振りとか手ぶりだとか、喋っている口の動きや、他人への表情の向け方だったりとかが、少し遠目に見ていると、早送りのコマ送りを見ているような気になってくる。谷口さんに目がいってしまうのも、最初はそういう変な動き方の人がいるなと思っていただけだったのだ。
議事録を一文書くたびに、次の一文を考えながら谷口さんを見ていた。そしてまた一文書いて視線を上げると、谷口さんも英治さんがモニターを指さしながら話しているのを聞きながらこちらを見た。
俺が見ているだけではなくて、谷口さんの方も俺が近くにいると何度も俺の方に視線をやってくる。じっと見てきてたり、また俺が見ているということに少し表情を曇らせて目を逸らしたり、反応はそのときによってばらばらだけれど、俺がぼんやりと見ていると目を合わせてくる。それをもう何回繰り返しているのだろうと思う。五十回は超えているのだろうし百回だって超えているのかもしれない。たまに、目を逸らすときに少し怒ったふうの表情が浮かんでから顔を下に向けるときもある。さっきは怒りのような感じはなかった。どうとでも取れるような、リアクションを保留しているような反応だったように思う。
もうずいぶんこうしていて、どうなんだろうなと思うけれど、かといって、ずっとこのままだったりもするのかなとも思う。俺と谷口さんは事業部が違うし、まったく接点もないのだ。仕事のからみもないし、飲み会で一緒になることもないし、いくら待っても自然と話す機会はないままなのだろう。実際、一度も話したこともないし、うわさを聞くこともないから、どんなひとなのかまったく知らないままだった。
もちろん、どういうひとといっても、見たまんまのひとではあるのだろう。三十歳はいっていなくて、二十七歳くらいかなと思うけれど、それより少し上でも少し下でも違和感はない。身体つきが貧相で、目や髪の色素が薄めで、肌も髪も少し乾燥していそうな感じがする。髪は肩より下で腰までいかないくらいで、肌は荒れていない。眉毛や睫毛なんかもボリュームが小さくて、顔もあまり凹凸がなくて、鼻も細くて口は小さくないけれど唇は薄い。化粧も薄い。これからおばあさんになるまで、まったく顔の印象が変わらなさそうな顔をしている。
声はそれほど聞いたことはないけれど、喉に引っかかっただみ声に近いような少し高い声で、身振りと同じように喋るのも速めだった。喋り方としては、おばさんっぽいわけでもなく、さほど上品なわけでもギャルっぽくもないし、かといってさばさば男っぽく喋るわけでもなく、キャラクターを当てはめにくい喋り方をしているような気がする。
今日もそうだけれど、いつもそっけなさすぎるくらいの格好をしている。絶対にかわいいぶった格好をしないというポリシーを感じるような素っ気なさで、多分駅ビルに入っているようなブランドの中から特に地味なものを選んでいるんだろうけれど、ユニクロとか無印だけで服を買っていたとしても、もう少し明るい印象になるんじゃないかという感じでまとめていた。身体が細すぎるし、顔も薄くて化粧も薄いから、自分の薄さに合わせた服ばかり買っていると、そんなふうになってしまうのかもしれない。似合わないからだろうけれど、襟付きのものを着ていることはなくて、いつもアンサンブルのカットソーとカーディガンでスカートをはいて、そっけない感じのヒールの高くないパンプスを履いていた。外出があるときだったのだろうけれど、たまにジャケットを着ているときもあった。そのときも中はカットソーでスカートだったけれど、そういう多少身体にボリュームが出る格好をしている方が格好がついているのになと思った。
ダサいといえばダサい感じのするひとなのだ。ぱっと見としてはいい歳をして処女だったとしても驚かない感じではある。理系には見えないし、むしろ文学部風な感じがする。それなのにこんな男だらけのシステムの会社にSEのような営業のような職種で転職してきたのだから、さぞ今までの会社で普通の女の人たちに嫌われてきたかいじめられてきたのだろう。この会社にいる女の人たちは、業務委託できている経理や文書作成の人たち以外はたいていそんな感じなのだ。どんくさそうな女の人とか、ずれた感じがするわりに気の強そうな女の人とかが多い。谷口さんにしても、小さくて貧相で地味なわりには、ナチュラルに少し態度が大きいふうに見える。優等生風で、自分が正しいと思っていることは空気を読まずにきっぱり言ってしまいそうな感じだったりもする。
どうして谷口さんを目で追ってしまうのだろうと思うけれど、かわいいからというよりは、変なひとだなという興味で見ているのだろうなと思う。女のひとじゃなくても、歩き方が変とか落ち着きのなさに変な感じがする犬が連れられていたりしてもずっと眺めてしまうし、電車に変な子供がいたりしても見てしまう。そういう不思議な仕草とかムードを持っているひとやものを見るのが好きだからというのはあるのだろう。
書くことがないなりに引きのばした議事録を書き終わって、印刷ボタンを押して、プリンターに取りに行こうと立ち上がると、谷口さんがこちらに視線を向けてくる。俺がそちらを見るとまた目が合った。二秒ほど俺と目を合わせたままにしてから、少し勢いをつけた感じで顔の向きを変えて視線を外した。少し口の端が持ち上がった気がした。
さっきのエレベーターでもそうだったけれど、トイレに行ったときだとか周囲に他の人がいない状況ですれ違うときも、谷口さんは視線を外しきらずに俺に意識を向けたままですれ違ってくる。関わりが発生しないように目を逸らしたり、会釈だけしてすれ違うというのとは、だいぶん雰囲気が違っている。
(続き)