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【小説】会社の近くに住む 2-4

 うとうとしているところにアラームが鳴って、すぐに起き上がった。顔を洗って服を着て、カップに少し残っていたコーヒーを飲んだ。
 家を出て、タバコに火をつけて階段を上がると目の前が小さい印刷所で、左に曲がるとそこに会社のビルがある。会社と家の間には一軒の店もない。昼休みに飯を食いに行った店から会社への帰り道に家がある。店から会社に戻る途中でひと眠りできる。もう一年半このアパートに住んでいるけれど、いまだに不思議な感じだなと思う。
 ビルの裏口の前にある喫煙所でタバコの残りを吸って、エレベーターに乗って席に戻った。
 席に戻って、昼休憩の前にやっていた作業を再開したけれど、三時から打ち合わせがあるから、二時間もしないで出掛けないといけなかった。
 打ち合わせといっても、問題なく稼働している顧客との定期的な打ち合せだから、気楽なものだった。会社のサービスが、月額料金だけをもらってシステムを作ったり追加のカスタマイズに対応していくスタイルだから、もっと金を払ってもらおうとあれこれ気をまわす必要もない。月額料金を下げてほしいとか、開発体制を強化して欲しいとか、そういう交渉事でもあれば、その場の話をどうやって持っていくのか難しいところがあったりするのだろうけれど、そういう話はマネージャーと役員が対応するから、俺には関係がなかった。俺にできるのは、納品するシステムをちゃんとしたものにして、打ち合わせや日々のやり取りを建設的に進めて、月額料金が割安だと思ってもらえるようにすることだけだった。
 打ち合わせ資料は昨日羽田さんに確認してもらっていた。「何もないっすね」と言って資料を渡すと、羽田さんもそれを見ながら「そうだよねぇ。何もないんだよねぇ」と言っていた。
 最低二週間に一回は打ち合わせをしようということになっているけれど、いくら考えてみても打ち合わせすることが何もなかった。毎回の打ち合わせ資料に載せている、開発中の案件の進捗状況と今後開発する予定になっている案件を表にしたものを更新しただけの、何も議題のない打ち合わせ資料になってしまった。それだけならメールで送って確認してくださいといえば充分な内容だけれど、行ってみたら相手から何か新しい要望が出されるかもしれないし、何もないならないで、何もないですねという話をしに行けばいいのだろう。
 作業は区切りのいいところまでいけなかったけれど、出なくてはいけない時間になったから、メールを確認して荷物の準備をした。羽田さんとは現地で合流することになっていて、ノートパソコンは羽田さんが前の打ち合わせで使うから持っていっているし、後は内容がなさすぎて一部一ページになってしまった資料が先方分四部とこちらが二部、それに自分のノートと筆記用具が入っているくらいだから鞄は軽かった。
 社内システムに外出先と戻り予定の時間を登録して席を立つと、吉井さんが「看板屋さんすか?」と声をかけてくる。これから向かう顧客は看板の取り換えやメンテナンスの施工仲介をやっている会社だから、同僚からは看板屋と言われていた。
「そうっす」と言うと、吉井さんは「いってらっしゃいっす」と言ってくれる。
「はーい」と言ってフロアを出た。
 会社を出て、タバコを吸いながらアパートの部屋に戻った。パソコンをスタンバイから復帰させて、プレイリストの音楽をそのままかけた。コーヒーメーカーに残っていたコーヒーをカップに注いで、少し喉も乾いていたからぐびぐびという感じで飲んだ。
 別に部屋に何があるというわけでもなくて、コーヒーを飲んでタバコを吸えばすぐに出る。けれど、会社で作業していてこれから打ち合わせに行くという合間に、ほんの少しでも部屋に入るとなんとなく安心する。
 部屋の中には音楽の音だけが聞こえている。ひとりだなと思うし、静かだなと思うけれど、これからまた人がたくさんいる中に戻っていくのがわかっているから、嫌な感じはしない。外にいると、いつでも少し息を止めているような感覚があるけれど、ひとりだと、ゆったりだるく息を吐き切ってしまえるような楽さはあるのかもしれない。タバコ休憩に出たときに部屋に寄ったりするのも、五分も部屋にいられなくても、ひとりになれると、それだけでなんとなく心地よかったりするからなのだろう。
 けれど、部屋に帰るのはそうだとして、かといって、部屋に帰って何をしているんだろうとも思う。何かあればいいのだろうけれど、何かあって戻っているわけでもない。それで無理やり、一曲も聞けないのに音楽を流したり、残っているコーヒーを飲んでみたりしているのだろう。
 タバコを吸い終わって、音楽を止めて部屋を出た。
 荒木町の小路を抜けていって、昼に食べたタイ料理屋の下を通る。今はもうランチも終わっているのだろう。夜に行ったことはないけれど、同じ人が料理しているのだろうし同じようなちょっと濃い味なのだろうと思う。ビールと一緒ならちょうどいいのかもしれないなと思う。
 杉大門通りに入ると、料理人風の白い服を着た若い男の人が発泡スチロールの箱を店の中に入れていた。かっちりした着こなしで、髪もかなり短くて、硬派な感じの高級店の若手のひとなのかもしれない。この近辺の大半がそうなのだけど、自分には縁のないお店なんだろうなと思う。
 荒木町一体は江戸時代には大名の屋敷だったらしい。それが明治時代に滝が名物の庭園になって、観光地として多くの人が訪れるようになって、料理屋が並んで芸者が行き交う花街として賑わうようになったらしい。そのまま震災も戦争も生き延びて、近年までフジテレビが若松河田にあったり、他のテレビ局も近かったりして、テレビ関係の人がたくさん遅くまで飲みに来たりで、長く料亭街として賑わっていたらしい。今は料亭という感じのお店はほとんどなくなってしまっているけれど、それでも、高級な和食の店がたくさんあって、食べログでこの周辺を見ていると、客単価が二万円を超えるような店もたくさんあるし、レビューが四点を超えているような店がいくつもあって、レベルの高い店が集まる飲食街ではあり続けているのだろう。
 せっかくそういう街に住んではいるのだけれど、昼飯以外では、荒木町内のお店にはほとんど入ったことがなかった。きっと特別な美味しさがあったりするんだろうなとは思うけれど、一食に一万円となると気が引けてしまう。そういう街だからここに越してきたわけではなく、会社の近くにいいアパートがあったというだけなのだ。それでも、実家のニュータウンに比べると、お店がたくさんある街の雰囲気というのはいいなと思う。
 四谷三丁目の駅を地下に降りて丸ノ内線に乗った。打ち合わせ先の会社は茅場町にあるから銀座で日比谷線に乗り換える。
 二時過ぎの四谷三丁目から上っていく電車はあまり混んでいなくて、席に座ると向かいに二十代後半くらいのかわいい女の人が座っていた。どこかに打ち合わせに向かうところなのか、少し難しそうな顔をしながらずっと資料を見詰めていたから、それをずっと眺めていた。難しい顔の中でもちょこちょこと表情が動くひとで、素直そうで本当にかわいいなと思いながら見ていた。
 かわいい人もきれいな人も街を歩いているだけでちらほら見かけるし、かわいい人が珍しいわけではないのだ。こんなふうに座って何分も相手の姿をずっと見ていられる状態だと、ぱっと見ただけの印象ではなく、仕草や表情の動かし方を見守りながら、どんなふうなひとなんだろうなということをあれこれと感じていられる。かわいいような気がするひとがいても、いつもはこんなにじろじろ見られないけれど、相手が作業中だったから、よさそうなひとだなと思いながらずっと眺めていられて、銀座まで思いがけず楽しい時間になった。



(続き)


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