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[書評・レビュー] THE RHETORIC 人生の武器としての伝える技術
聴衆にとって真実はどうでもいい!?
論理でひきつけ、人柄で魅了し、相手の感情を揺さぶれ!
聞く者全てを説き伏せる究極の説得術とは!?
THE RHETORIC 人生の武器としての伝える技術
ジェイ・ハインリックス著 多賀谷正子訳
11もの言語に翻訳され、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーにもなり、ハーバード大学 必読図書TOP10にも選出されている本書。
おびには
"「人柄」+「論理」+「感情」で相手を共感させ「イエス」を引き出す!アリストテレス、リンカーンからホームズまで歴代の達人たちに学ぶ、伝える極意"と記載されています。
レトリックとは3000年も前に生まれた説得術であり、「自分の考えや思いをうまく相手に伝える技術」とされています。レトリックを使えば、怒りの感情を掻き立てずに会話や議論をすることが可能となるといいます。
議論で相手を説得する技術、上司を説得する技術、いじめられた時にどうするべきか等、広い分野で活かせる多くの知識や技術について記載されています。
しかし私個人がうけた印象では、「ああ、こういう時はこういえばいいのか」のような簡単なものではありません。
ある書店でポップに「これを読んで、上司にずばっと言い返しちゃえ!」みたいなことを書いているのをみかけました。
よっぽど考察が深くて、適応力が高い人でなければ、一夜にして変わるものではない気がします。そのコンセプトを意識して、使い続けることで、次第に議論を有利に進められるようになるんだろうなといった印象です。
ではその内容の触り(私の解釈が誤っていたら申し訳ありません)をみてみましょう。
まず大事なのは議論と口論は違うということです。議論は、うまくやれば聞き手を語り手の思うとおりに動きたい気持ちにさせるもので、それに対して口論は、相手に勝つためにするものです。口論はいわば「発展性のないただの口喧嘩」です。つまり議論の目的の一つは聞き手に語り手の意図を伝え、同意をえるように説得することとなります。
歴史上最も偉大な弁論家キケロは、人を説得するには3つの目的をあげています。簡単なものから並べると
①聞き手の感情を刺激する
②聞き手の考えを変える
③聞き手を行動へ駆り立てる
①より②、②より③の方がより困難なのは明らかでしょう。
著者は説得のうまい人として次のように記載しています。
"説得のうまい人は、聴衆の反論を見越して話をする。理想的なのは、聴衆が実際に反論する前に、自分からその話を持ち出すことだ。この技術を使えば、相手を説得できる可能性がますます高まる。聴衆は自分たちの懸念をあたかもあなたがすべてなんとかしてくれるだろうと思いはじめ、知らず知らずのうちに、説得されやすい状態になるのだ"
「説得」という点において、著者はアリストテレスが提唱した、3つの最強の説得術を紹介します。その三つとは
・語り手の人柄(エートス)による説得
・話の論理(ロゴス)による説得
・聞き手の感情(パトス)による説得
「ロゴス」:論理の力を使った技法。ロゴスは単に論理のルールに従えばいいわけではない。聞き手が考えていることを利用する、一連の技術を指す。
「エートス」:語り手の人柄を使った技法。説得者の人格、評判、信頼に値しそうに見えることなどを使う。
「パトス」:感情に訴える方法。誰かを論理的に説得することはできても、実際に椅子から立ち上がって行動を起こさせるには、もっと感情に訴えるものがなければならない。
「語る内容がいかに論理的か」、「外見や既存の評価を含めた語り手の人柄」、「相手の感情に訴えるテクニックやタイミング」を総合的に駆使すれば説得力が増すというのです。
説得する際には、こちらの説得したい内容をいきなり「がつん」!と押し付けてもうまくいきません。
まず聞き手が何を信じているのかを理解することから始まり、その感情に共感し、彼/彼女が期待するような振る舞いをすることで可能になるのです。
聞き手にあなたの決断を信用させるには、次の3つのテクニックが有効といいます。
・経験のアピール。(私にはそれを可能にするだけの経験・実績があります!!)
・必要に応じてルールを曲げる。(わかりました。私は話のわからない頑固なだれかさんとは違います。臨機応変に対応するということで、こういうアイデアはいかがでしょう!?)
・中庸であるように見せる。(皆さんの意見が分かれているという事は、現在検討中のアイデアが極端すぎて納得いかないからでしょう。では間をとって、このようなアイデアはいかがでしょう!?)
いかがでしょうか。なるほど尤もなご意見ですが、すぐに使えるものではなさそうです。ただし、こういうことを常に意識して行っていけば、必ず説得力ある議論の得意な人間に近づけそうです。
人柄(エートス)といえば、非常に面白い記載がありました。マリー・アントワネットは本当に「ケーキを食べればいいじゃない」と言ったわけではないそうです。彼女を敵視する者が、嘘の情報を流したのです。しかし彼女の「エートス」が、それを皆に信じさせました。議論がどう展開するかは、聴衆が何を信じているかが大事で、何が真実かは問題ではないのです。
ここは筆者も非常に重要視している点です。聴衆にとって「真実」はどうでもよいのです。大事なのは彼/彼女らにとって信じられる「事実」が何かということです。銃犯罪の件数が実際に増えているかどうかといった統計学的数学以上に、彼/彼女達がどのように感じ、何を信じているかが大切なのです。
危惧すべきは、現在の日本の政治にはレトリックが悪い意味で非常にあふれている点です。聴衆を説得し、信じさせるのは必ずしも正しい論理、正しい人柄、正しい感情とは限りません。議題の論点をすり替え、事実をねつ造し、自分たちが信じさせたいものを国民にすりこんでいく。まさに現在の国会の在り方そのものではないでしょうか。〇〇内閣は完全に信用おけませんが、かといって、文句ばかりいって、すぐにブーメランで不祥事を報道される野党も全く信用できません。
正しい信念・正しい人柄をもって、我々国民を導いてくれる政治家ばかりになることを望みます。しかし、そういう人間を選出するためにも、我々がレトリックに慣れ親しむ必要があります。そう、「説得する」云々の前にまず「だまされない」ために!!
本書は社会における様々な場面でのアドバイスもしてくれます。
まずいじめです。
"いじめられたときに、いじめのことで頭がいっぱいになってはいけない。それではいじめた人の思うツボだ。肝心なのは聴衆の存在だ。いじめられたときこそ、聴衆の目に映るあなたの「エートス(人柄)」を高めるチャンスなのだ。"
"いじめに落ち着いて対処すれば、あなたは自分の人柄のよさを示すことができるし、聴衆の同情を集めることも期待できる。"
ただいじめられている時にこんなことを冷静に考える事はできません。いじめている連中と同様に、周りの人もくせものであることが多いです。私はいじめというより、クラス全員からいわゆる「しかと」というものをくらったことがあります。周りの人からしたら自分達に被害が及ぶのが怖かったからだと理解できますが、私からしたら、世の中全部敵にみえたものです。
そんな時は親であったり、そういう状況でも自分を見放さない本当の友人といった存在が非常に大きいです。
数年して再会した際には、いじめの当事者そのものではない、周りの人の多くはその影響自体を認識していなかったりするものです。
ずーっとしかとしていた人間が、数年して会ったらいきなり「おー、久しぶり!」となったりするのです。まあ、人間ってそういうものなのです。私も逆に、彼/彼女達の立場だったら違ったか!?といわれたら、「違う!」とは即断できないので、特に恨んだりはしません。むしろわだかまりがなくなったら声かけてくれるのか、自分自身のエートスがひどく嫌われていたわけではないのかとほっとします。こういう経験をしたので、自分の子どもには「ダメなものはダメ!」といえる強い人間になってもらいたいのですが、それを求めるのは『酷』なのでしょうか?
以前に報道されていた都内某所の児童相談所問題。ワイドショーでみる限り、一部の方々の発現は差別発言そのものに聞こえてしまいました。彼/彼女のお子さん達はいったいどういう教育で育つのでしょうか。児童相談所ができる/できないの前に、ああいった発言をする人たちのいる土地には住みたくないと思いますし、そんな環境で自分の子どもを育てたくありません。
まあ、仮に住みたいと思ったところで、住めることなどないので、そんな心配をする必要は皆無ですが...
わが子がなんらかのターゲットになった時にあっという間にいじめの対象となったり、しかとされるのが目にみえています。もし仮に我が子がターゲットでなかったとしても、そのターゲットの子を見て見ぬふりをするような子どもにはなってほしくありません。
また、お願いもしていないのに(えらそうに)、アドバイスをくれる親戚のおじさんのような存在への対応も教えてくれます。
"細かい部分について議論すると、相手が自分の意見を和らげる傾向にあることが、神経科学で証明されている。詳細を詰めていない意見ほど、極端になりがちなのだ。"
"質問しつづけること。言葉の定義や詳細、情報の入手先まで掘り下げて話をしよう"
つまり、たいしてえらくも無いのにえらそうなおっさんには、純粋な子供になったつもりで「どうしてそうなのですか?」「それは統計的にも裏付けられているのですか?」「具体的にはどのくらいの数字なのですか?」「どこでそういった情報を得られているのですか?」と訊いていけば、相手も答えられずに態度を軟化させてくるというのです。
もしそれで全部に答えられるような人なら、(疲れるかもしれませんが)そのヒトのすごさを認めて、そのヒトから得られるものを得るべきでしょう。
受験問題としてのエッセイについても記載があります。
"大学入学試験のためのエッセイは、相手を説得させるためのものである。
読み手を説得したいなら、読み手の考えや希望を書き、あなたならそれを体現できる、と示す必要がある。「最も独創的な文章」を書く必要はない。読んでいて面白いものなら、それでいい"
論理や構成がめちゃくちゃなのは論外ですが、何人もの人間が同じ試験を受ける上で、あたりさわりのない無難なエッセイを書いても、印象にも何も残りません。
私自身、学士編入試験で医学部に合格しました。経歴・人格ともに誰が見ても合格させたい人間なら、当たり障りのないエッセイを書いても合格可能でしょう。しかし私のような突っ込みどころ満載の経歴をもった人間にとって当たり障りのないエッセイは何も書かないのと同じです。
何か「おっ!!」と思わせる構成・内容が必要となるのです。
こんな記載もありました。
"上司を気づかっていることを示すには「何かご要望はありますか?」と訊いてみることだ。とてもシンプルに聞こえるが、管理職をしていたころ、直属の部下からこの言葉を聞いたことはほとんどない。"
毎週行われている上司との1対1の面談で、どんなことに気をつけたらいいか、奥様に問われた際に、「君がやっている仕事の進捗状況を話し終えたら、何か要望がないか訊いてみるといい」とアドバイスされたとのことです。2,3週間のうちに、奥様は職場になくてはならない人になったといいます。
かなりの収穫がありました。考察力の高い方ならもっと多くのことを得られる本だと思います。一読の価値はありです。