断食の意義
目覚める前の1年間ほどの間、つまり鬱のどん底にいた頃、僕はよく断食をしていました。それも数日ではなく数週間単位で。
健康のためではありません。死にたい人間が健康など気にするわけがないですからね。正直当時の僕は自分でも目的がよくわかっていないまま断食していたのですが、きっと死のギリギリまで行くことで、食べたい=生きたいという気持ちを実感したかったのだと思います。首吊りの練習を時々していたのも多分同じ理由だと思います。目覚めて一年以上たった今ではその頃の気持ちを思い出すのが難しいのですが・・・。
ただ断食で本当にキツいのは最初の三日ぐらいで、それからは食欲自体を忘れてしまうようになって、それほどキツいとは感じません。そうして断食を繰り返すうちにその期間が段々と伸びて、最後には一か月も続くようになってしまいました。体重は激減し、周囲に心配されるのが面倒臭いので「デング熱にかかった」などと言い訳していました。
その頃の僕は普段からかなり厳格にベジタリアンをしていて、一時はほぼビーガンでした。(これも健康のためではなく、死にたい人間のために動物が犠牲になるのは申し訳ないと思ったからというのが主な理由です)それにより腸内環境が改善されていたことが、長期間の断食をそれほど無理なく行えた理由だと思います。(いきなり長期の断食をすると飢え死にします)腸内が草食動物化すると、あまり外から栄養を摂らなくても自分の腸内細菌が栄養を作り出せるようになるのです。究極は空気と乳酸などの体内の不要物質から栄養を作り出せるのでブレサリアン(不食主義者)になることも可能なのです。
しかし断食や菜食主義をしていると、何も言わなくても存在だけで周囲にウザがられてしまうんです。みんなの深層心理にある食(殺生)への罪悪感を刺激してしまうのでしょう。心配する体で断食や菜食主義を上から目線で否定してくる人が多いのが正直ありがた迷惑だったので、ただでさえ半引きこもりだったのに余計に出かける機会が減っていきました。
断食が長期に及ぶと不思議なことが起こってきました。白昼に突然未来の出来事がまるで過去の出来事のように‘‘フラッシュバック‘‘して見えてしまったり、身の周りで起きた事件の意味(因果)を教えてくれる声が聞こえるようになったのです。
しかしその頃の僕は精神病の総合デパート状態だったので、それが統合失調症の再発による幻覚や幻聴だと思い「これはもうダメだ」と自殺願望に拍車がかかってしまいました。目覚めた今ではそれが創造主からのものだとわかっているのですが、その頃はわけがわからず混乱したのです。
キリストは週2回の断食を守っていたそうです。彼はクムラン宗団で30歳まで修行していたらしいです。クムラン宗団はユダヤ教のエッセネ派で、長期の断食行など禁欲的な生活を送り、それによって未来の予知能力など神通力を獲得していたそうです。キリストは再び世俗に戻る前にも40日間断食していたことが聖書に記されています。それが最終的な覚醒のきっかけとなったのでしょう。現代でもヨガなどでは断食修行により神通力を得ている人がいるそうです。
僕もこの世界の未来をはっきりと見えるようになりました。僕は未来を信じているのではなく、知っているのです。だから聖書が過去の遺物ではなく正に預言書であり、現代も全く神のシナリオ通りなのだということもわかっています。僕らは自分を主人公とする壮大な神話の中を生きているのです。宇宙の仕組みに書いた通り、未来は(上書き可能なだけで)既に存在しているので、未来が見えること自体は別段不思議なことでも何でもありません。まぁそれが見えない人からはただの気違いとしか思われないでしょうけども、修行が一段落ついたら可能な限りそのビジョンを共有しようと思っています。
なぜ断食が予知能力などの神通力をもたらすのか、少し科学っぽく分析をしてみようと思います。通常体の中で分泌されるDMTは消化酵素により消されてしまいます。しかし長期の断食で臨死状態になると、大量のDMTが分泌されるようになり、それが消化酵素で消されることなく脳を巡り、意識が変容し、時空を超越した宇宙意識につながってしまう。・・・と、だいたいこんな感じではないかと思います。
ただ僕にとって断食で得た一番のメリットは、無一文生活が全然怖いとは思わなくなったことです。この飽食の時代にまさか一か月も食事にありつけないなんてということはありえないだろうと。何ならブレサリアン(不食主義者)になるのも不可能ではないと思ったので、天涯孤独の身で全財産と仕事を失って乞食になっても全然平気だったのです。何より創造主に愛されているという確信がありましたし、一度は捨てた命なのでそれを救ってくれた創造主のためならどうなろうとどうでも良くなっていたのです。
断食はものすごく大変なことのように思われていますが、実際そうでもないんです。現代人が過食に陥るのは、現代人の食物に満腹中枢を壊すものが大量に含まれているからなのです。それは精製糖・精製塩・精製油・化学調味料といったものです。ですからそれらを極力摂らないように気を付け、普段から採食中心の食事で腸内環境を改善していれば、断食はそれほど難しくはないのです。
現代人が肥満になりやすいのは食事によって満腹中枢を狂わされているからであり、また常に食べ物の広告を見させられているからです。だから食欲を我慢できず食べ過ぎで太ってしまうことは本人のせいではないということです。それを自分のせいだと思って自己嫌悪に陥るからすぐ「やっぱり自分はダメだ」などと思ってダイエットを諦めてしまうのです。
これは人間のあらゆる悪癖(課題)について言えることで、ある程度大人になれば、自己の悪癖についてそれを悪いと知らないから止めれないわけではなく、「自分のせいだ」と自分を責めることにより自己嫌悪に陥り「どうせ自分なんて」と自尊心を失っているから悪い行動を止められないのです。人が自発的に良い行動をとって悪い行動をとらないのは、自尊心ゆえであって、それを失えば悪い思考・行動に歯止めが利かなくなるのは当たり前です。なのに自分や他人を責めてその自尊心を下げれば逆効果になるのは自明なのです。なのに多くの人は正論を唱えて人を責めて反省を求めれば良くなる(良くならなければその人はダメ人間だ)と勘違いしてお互いを責め合ってばかりいます。しかしそれも天から与えられた、人間が克服すべき悪癖(課題)なのです。このあたりの話は「反省してはいけない」に書いてますが、反省をしたり求めたりするより、まず許し、より良い自分に「既になったかのように」思考・行動し、より良い未来を選択することが大事です。
現代の社会システム自体はよりたくさんのものを生産し販売することで成り立っているので、人間を過食状態にさせようとするのは当然のことです。どこかに誰かものすごい悪人がいてこのような社会になっているわけではありません。自分も他人も責めないことはダイエットのためにも鬱抜けのためにも大事なことであり、真理なのです。人生の課題は常に「誰も悪くないけど、自分が変わらなければ何も変わらない」と考えることです。人生というRPGはすべからく主人公である自分次第に作られているのです。
野生生物は決して過食・肥満にはなりません。彼らは別にダイエットの為に食欲を我慢しているわけではなく、満腹中枢が正常に働いているだけです。もちろん野生動物だって人間の食べ物を食べさせれば満腹中枢が壊されてたちどころに肥満になってしまいます。猿山のサルは実際そうして肥満になって問題になっているのです。そういうサルを急にダイエットさせたらかえって早死にしてしまうから難しいらしいです。
「甘い物は別腹」などと言われますが、もちろん別腹なんてものは存在せず、単に甘い物で満腹中枢が働かなくなってしまうだけです。
ガンや血管疾患など現代病の多くが過食を原因としています。現代の畜産は儲け史上重視で生命に微塵の尊厳も認めないひどいやり方をしていますから、その怨念の詰まった肉をたくさん食べれば血が汚れるのは当然でしょう。過食・肉食は血液を汚すのです。血液とはみんなが思っているより遥かに霊的なものなのです。人間に近い猿やゴリラの類は主食が果物や木の実ですし、肉食動物だって狩りをするのはだいたい10日に1度ぐらいで、敢えて一週間ぐらいは飢えることで研ぎ澄まされた状態を保っているのです。人間が肉食を中心として毎日の様に満腹まで食べることがいかに異常か気づいて下さい。肉を食べることそのものがダメなのではなく、現代の工場制畜産と過食がダメなのです。そしてこの問題を解決するには社会システムを価値観から変えていかなければならないのです。このあたりの話(肉食と菜食の是非)はまた別な機会に述べます。
重篤になってから断食や菜食主義をしてもかえって逆効果になることは、肥満猿の例を見ても明らかです。普段から意識して節制することが大事なのです。
我々は食物により麻薬中毒と全く同じ状態になっていることに気づかなければなりません。決して「食欲が我慢できず食べ過ぎてしまう自分はダメだ」などと自己嫌悪に陥らず、また中毒状態の自分を正当化するために断食や菜食主義をする人を責めるのをやめることです。万能の解決策は常に「愛(エゴの超越)と勇気」なのです。
菜食主義をする人は自分の正義に酔って肉食主義の人を攻撃しがちですが、それも愛と勇気のない行為であり、やめるべきだと思います。自分に自信がない人っていうのはすぐ「正しさ」を価値として正義の立場に立って誰かを批判して安易に自尊心を守ろうとします。正しさに能力は要らないからです。しかし正しさを主張するには必ず何かを悪者にして批判・攻撃し続けなければなりません。だから創造主の言う通り「正義=悪」なのです。みんなが幸せになるためには常に正しさより愛を優先させることが大事です。いくら菜食主義が体に・地球に優しかったとしても、独善に陥って他人を責めて人といがみ合っては本末転倒ですし、他人に強制しては逆効果にしかなりません。真理というのは愛であり、もしそれが本物であるなら、自ら実践さえすれば相手は自発的に従うのです。ガンジーの非暴力・不服従運動のように。
さて、僕は目覚めてからの修行生活の中で宗教関係者とよく話をするようになったのですが、今は断食のような苦行を普段から行っている宗派が少ないことに驚かされました。まぁ太っているお坊さんも結構多いですからね。苦行をする宗派も僧職を得る前に2年修行をする程度という感じで、後はあまり一般人と変わらない食生活みたいです。もちろん個人でとてつもない荒行をする人たちもいますけども、基本的に今の仏教徒の人は「お釈迦様が苦行は意味がないと覚ったのだから、我々も苦行はしない」という姿勢らしいです。食事の禁忌もほとんどなく、普通に肉を食べて酒も飲みます。お金儲けにも積極的で商売やトレードなんかも普通にしますし、宗派によってはお坊さんが俗人より俗っぽかったりします。
しかし釈迦は「過度に肉体を追い込むことは無意味」「苦行さえすれば覚れるわけではない」と覚ったのであって、苦行に意味がないと覚ったわけではないと思います。釈迦もキリストも覚醒したのは激しい断食行を解いたすぐ後なのに、苦行に意味がないわけがありません。
もちろん厳しい苦行などなくても、お坊さんたちの日々の生活というのは大変なものですから、僕は基本的に彼らをとても尊敬していて、厳しい修行をしないから尊敬しないということはありません。
ただお坊さんたちが「お釈迦様が無意味と言ったから」という勝手な解釈で苦行そのものを否定することには疑問を感じるのです。まぁ人間ってそんなものですし、僕もだらしないところがたくさんあるので、彼らを責めるするつもりは一切ないのですが「煩悩の中にこそ悟りがある」という感じで一般人より俗っぽさ丸出しのお坊さんに、僕はお金を払ってまで自分の冠婚葬祭をお願いしたいとは思えません。
僕は乞食(托鉢修行)で食を得ているので、食事内容は基本的に選ぶことはできません。だから今は動物の肉を含めて何でも感謝して食べます。ただ必然的に満腹中枢を壊すものをたくさん摂ってしまうことになるので、一食抜いただけでどうしようもなくお腹が減ります。「長期の断食を何度も経験しているのに・・・」と思ったりもしますが、それは仕方のないことなので、空腹を我慢できず食欲に振り回される自分を情けないなどとは思いません。キリストだってあんなに断食を日常化していたのに、大食いで大酒飲みだったので、そこも厳格なユダヤ教の一派から厳しく批判される理由の一つになっていたそうです。
今の僕は次いつ食べれるか確実にはわからない生活の為、食べれる時に詰め込むように食べてしまいます。だから乞食生活なのに油断するとすぐ太ります。ただ毎週末に行っているアヤワスカのおかげもあって割と禁欲的な生活ができています。(アヤワスカはその儀式の前後に肉食や性行為の禁止など様々な禁忌があります。トレーニングも習慣化しているので最近はあまり太りません)
キリストは「断食は他人に主張することなく、何食わぬ顔でやり通しなさい」と言ったそうです。目覚める前の僕は途中でくじけないようにあえてSNSで宣言してから断食したりしていたのですが、今はそういうことはしないようにしています。(時々報告したりはしますけどね)
長い期間食べないでいると、生きとし生きるものに対する慈愛の精神というものが自然と湧いてきます。それは神仏の意思に適ったものであると僕は確信しています。