私達は「存在」を捉えられない

西洋文明というのは伝統的に「存在」というものをやたら重視する。その影響をモロに受けて、私達は自分自身も「私はこういう人間(存在)」、他人も「あいつはこういうヤツ(存在)」と定義したがる。最近よく話題になる発達障害も、存在を定義する行為の一つと言えるだろう。でも。

私達は関係性でコロッとあり様が変わってしまう生き物。親に向ける顔と友人に向ける顔、先生に向ける顔、年下に見せる顔、みんな違う。関係性が異なると別の人格(ペルソナ)に変わる。ものすごく意地悪な子だと思っていたら、別の人間関係では全く振る舞いが違ったりする。存在がどんどん変容する。

カーネギー「人を動かす」という本は、マネジメントやリーダーシップを考える上での教科書みたいな本だけど、これには面白い事例がたくさん紹介されている。
顧客に通り一遍の態度をとるとまさにクレーマーそのものなんだけど、店員が姿勢を工夫すると態度がコロッと変わって、協力的に。

私達は「憎いあんちくしょう」と、相手の存在を決めつけて(定義して)、もはや決してその定義から変化することはないと考えてしまう。考えたくなる。しかし人間はどうやら接し方次第で変わる生き物。優しくされるか厳しくされるかで反応がまるで違ってしまう。

学校から帰ってきたそばから「宿題は?」「勉強はしなくていいの?」と言われると、子どもはやる気をなくすだろう。もしそれでも宿題や勉強をしたとしたら、言われるがままに動く意志のないロボットのように自分を感じてしまう。それを否定するためには、宿題も勉強も拒否するしかなくなる。

でももし、親が何も言わず、しかし自分から宿題を終えたとき、「何も言われないのに宿題自分からするなんて、あんた偉いねえ。どこの子やろ?」と驚かれたら誇りに思い、明日も何も言われないうちに宿題済ませて驚かしてやろう、と企むだろう。関係性で振る舞いは激変する。

人の心は水のようなものだと思う。丸くなれ、四角くなれと命令しても水は丸くも四角くもならない。言うこと聞かないことに腹を立て、殴ったり蹴ったりしても水は飛び散るだけ。決して丸くなったり四角くなったりしない。でも、「関係性」(環境)が変わると。

丸い器、四角い器に水を注げば、水は自発的に丸くなり、四角くなるだろう。水は空虚を埋めようとする性質がある。命じなくても、空虚がそういう形になっていれば水はその形に空虚を満たそうとする。人の心も同様に思う。

ケネス・ガーゲン氏は「関係からはじまる」で、興味深い事例を紹介している。アメリカでは中絶問題に関して世論が真っ二つに分かれる。両派が議論しても平行線のまま。決して理解し合うことはない。「アイツラは」と、相手の存在を決めつけ、罵ることも。でも。

なぜ中絶に反対するようになったのか、逆に賛成するようになったのか、それぞれの人のきっかけとなった個人的エピソードを語り合うことにした。「自分の妹がこんな目にあって」「出産のときにこんな悲しいことがあって」すると、立場や考え方の違いを超えて、理解し合えたという。

自分もそういう経験をしたなら、そっちの意見になったかもしれない。お互いにそう思えるようになったらしい。
相手の主張をリクツでだけ捉えている間は「なんでアイツはこんな簡単なことも理解できないのか」と、相手の存在をバカにしていたのに、

個人的体験を聞くと、「自分もその立場だったとしたらどうなるかわからない」と考え込み、相手にも相応の理由があるのだ、と感じ、融和的な態度を取れるようになった。私的な体験を話し合うという「関係性」に着目するだけで、行動態度は激変する。

西欧はプラトンの時代から、やたらと存在を定義したがる伝統がある。これはキリスト教が支配した中世でも変わらず、デカルトが合理主義を確立してからもそれは続いた。デカルト哲学の完成者とも言えるカントやヘーゲルも、存在を非常に意識している。でも。

私達は存在そのものを捉えることはできない。実は「関係性」でしか捉えられない。例えば「鉄」を私達はどう理解しているだろう?
夏の日差しでやけどしそうなほど熱くなる、冬は凍てつくほど冷たくなる、電気を通す、潮風に当たると錆びる、包丁やトンカチになる、磁石にくっつく、などなど。

鉄を理解するには、鉄以外の何かとの関係性で捉えるしかないことに気がつく。鉄以外のものとの関係性が描くそのネットワークの中心に、「鉄」があるのだろうけど、鉄そのものを理解することはできない。その他のものとの関係性が輪郭を作り、その中に「鉄」はあるんだろう、というおぼろげな捉え方。

おぼろげにしか「鉄」を捉えられないから、おおむねの感じ、つまり「概念」と呼ぶ。私達は存在をクッキリキッチリ把握することはできない。他者との関係性の輪郭なしには、存在を把握できない。存在そのものを決して把握することはできない。

プラトンが「イデア」なんて言うから、私達は存在(イデア)をキッチリ把握できるような錯覚に陥ったのだと思う。でも私達は、存在そのものを把握することはできない。必ず関係性でしか把握できない。

これは仏教的な捉え方に似ている。仏教では存在を「空」と表現する。存在そのものを把握しようとしてもつかめない。おぼろげでしかない、ということを、「空」と表現したのだろう。そして私達は存在を「縁(えん)」(関係性)でしか捉えられない、とも。

縁という字は「ふち」とも読む。物事の周辺、他者と触れ合う表面、ということなのだろう。存在の核心は決してつかめない(空)けど、他者と触れ合う縁(ふち)どりならつかめる。どうやら人間の認識は、関係性でしか物事を捉えることができないらしい。

しかも存在のあり様は、どの縁(ふち)に触れたかで印象がガラリと変わる。
「群盲象を撫でる」ということわざがある。目の見えない人達が生まれて初めてゾウを触った。しかしどこを触ったかで印象バラバラ。呼び鈴のヒモ、カーテン、大きな筒、武器、丘・・・

私達は存在に触れたつもりになり、それで理解できた気になる。尻尾をつかんだ人にとっては「呼び鈴のヒモ」でしかない。足を触った人にとっては柱、耳を触った人にはカーテン。その人にとってのゾウは、触れた縁(ふち)での印象からしか想像ができない。

でももし、別の人の印象を否定せず、どんなふうに感じているのかを虚心坦懐に聞き、自分の感じた「縁(ふち)」と総合して考えると、「これはもしかしたら、ウワサに聞くゾウでは?」と、全体的なふちどりを得ることができるだろう。その途端、それは「呼び鈴のヒモ」ではなくなり、ゾウに感じる。

群盲象を撫でる、のことわざにあるように、私達は存在の縁(ふち)に触れることしかできない。できる限り縁(ふち)をたくさん触って、全体感をおぼろげにつかむのが精一杯。私達は決して存在をくっきりと捉えることはできない。関係性でイメージはガラリと変わる。

西欧では、存在を「これはこういうものだ」と定義したがる伝統があるが、ガーゲンは「関係性次第で存在の姿、印象は激変する」と捉える。こうした捉え方を西欧でし始めたという点が、興味深い。「憎いあんちくしょう」は、そういう存在だとは限らない。関係性が生み出した化け物かもしれないのだから。

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