AWGs 13のゴール 虐待死をゼロに
虐待は、意外と身近にあるものである。
自らのエゴや問題行動の一つの果ての行動ではなくて
「向き合っているからこその限界」からくるものもある。
だから、しっかりと虐待の現象を周知・教育をするのと同時に
どうしようもないときの「心の余裕」を持つ訓練が大切であると感じる。
そうした積み重ねが、ゼロの社会に繋がると考える。
でも、私は語れる資格があるのだろうか。そんな記事である。
―はじめにー
記憶にも新しいが、下記のようなニュースがあった。
ゴミ袋に子猫を入れて捨てたニュースである。
最近このようなニュースが増え、目にする機会が増えている。
動物への虐待は、ニュースや記事で目にするものだけでない。
氷山の一角で発覚していない事例が、数え切れないほどあるだろう。
平成30年と少し古いものになるが、環境省で「動物虐待の事例」をまとめている。
(平成30年度動物の虐待事例等調査報告書-環境省 総務課 動物愛護管理室-)
(Ⅱ 新聞報道された動物の虐待等の事例)
中身はショッキングなものであるが、
これらの事例をみなさんはどれだけ知っていただろうか。
恥ずかしながら私は、ほとんど知らなかった。殺人事件と違い、それだけ情報分野においても軽視されてきたということだろう。
研究や情報がありながら、しっかりと周知されず教育分野にも反映されにくい。私は、人権やダイバーシティの分野と教育分野が専門であるが、動物を取り巻く問題などを取り上げたことがなかった。
今後、しっかりと教育分野にも反映されなければならないと思う。
こうしたアンバサダーの活動が、その一つになればいいなと考えている。
と・・・まるで他人事のように語っているが、私自身、実は後悔していることがある。
私の後悔~サスケの認知症と介護の最後の出来事~
前回の記事で書いたが、サスケはかなりの認知症になっていた。
老衰で亡くなる前のサスケは、ただ手作りの広いゲージの中をグルグルと回り、おしっこやうんちを垂れ流し、オムツをしても外れたり、ご飯を嘔吐しても回り続けるため“まみれ”になり、夜は叫び声を上げ続ける。という状況であった。
重度のものになってから数か月も経つと、家族ともども「限界」がきていた。常に誰かが見ていないといけない。掃除をしてもしても汚していくことに泣いたこともあった。
それでも、サスケはグルグルと回り続ける。
正直、こぶしを強く握り絞めては、耐えて耐えての繰り返しだったと思う。
そんなある日、私だけが家にいる日があった。
振り返ればこの日が、サスケの旅立つ日となる。
多分、サスケも限界だったのだろう。命が終わるギリギリまでグルグルしていた。しかし、限界も近いためだったのか、嘔吐が止まらない、尿なども多く、終末期といえる状況である。
変えても変えてもオムツにおしっこ。
吐いて吐いて拭いても拭いても汚れを広げてしまう。
「お願いだから、止まってよ!!」
伝わるわけもないし、吐しゃ物を平気で踏んで広げていく。
こんな状況になるまでも向き合っていかないといけない。
もう、もう、もう、もう、もう、もう・・・
・・・・・・・・・
いつの間にか私は、サスケを吹き飛ばしていた。
片手で押すようにサスケを突き飛ばした。
それでもサスケは、立ち上がり回り続ける。
汚れをただ広げていくだけ。
自分は罪悪感と老いへの残酷さに泣くだけだった。
私が原因だったのだろうか。きっと気持ちが伝わってしまったのだろうか。
その数時間後、急に横たわるだけになっていた。病院にいくと、「もうそろそろお迎えだから家族で集まってね」と言われた。
そして・・・前回の記事の最後になるわけである。
だから、サスケが亡くなる前、私に笑いかけていたという話を書いたが、それは「突き飛ばしたことを忘れないよ」という意味なのかなと、未だに悩んでいる。
突き飛ばしは虐待だと私は思う。
でも限界だったから・・・という言い訳はしたくない。
自分自身が追い込まれているときには、どんなに大切な存在でも冷静な判断ができなくなるときもある。
遺棄や快楽での虐待などだけではなく、虐待というものは身近にあるかもしれない。私は、そんな後悔を今でも抱えている。
―さいごにー
人間の介護もそうだが、在宅で介護は「常に虐待」との闘いだともいわれる。
自分自身の親だから子どもだからこそ、どうにもならない環境と現実にやり場のない思いが爆発してしまう例も数多くある。
しかし、動物の場合は、人間のように「特別養護老人ホーム」や「介護士さんや介護福祉士など」の方が支援に入っていただけるわけでも、助成金があるけでもない。
自分たちで全てをやらなければならない。その命を全うできるように。
虐待はいけない。でも遠いところにある「問題を抱えた人」だけが行うものではない。添い遂げるということは、その瀬戸際を行ったり来たりすることにも直面する。
もし本当に辛いとき、どうやって向き合ったらいいのかということを考える必要がある。
育てることは完璧にこなさなければならないものではない。
難しい問題がおこったときに、どうやって乗り越えていくのかを考えることが大切なのである。
後悔しないために、気持ちよくお別れできるように。考える必要があると私は思う。