AbemaTVに出演してみて〜語ることの難しさの再認識〜
とてもとても貴重な体験でした。
ただチャンスを活かすことが出来なかったな…と反省もあり…。
オファーして頂いた方にも申し訳ないな…と。
そして、改めて芸能人やメディアに出る方々は、強い言葉や力などを持っていると感じた。
だからこそ、世の中で潰されがちな言葉や思いが伝わる。そして、発信できる力のある人達が声を上げ、疑問を呈することで社会が少しずつ変わる。
それはとてもとても必要なことである。
でも一般人?のような人が、当事者で今直面している物事や過去の傷を、力のある人達のなかで語るってすごく難しい。
限られた時間のなかでは議論は難しく、力や経験がないと難しい。
これは大学院のなかというか、研究室という小さい集団のなかとは、大きく異なるものである。
だから、普段の生活のなかで語るなんて、とてもとても大変なこと。
議論をするのなかで力のある人達が発信する言葉に、自分の意識や思考は揺さぶられ、言葉を発するということが難しい問題があると気がつく。
問題がセンシティブであればあるほど、1つ言葉を間違えば己を傷つけ兼ねない。
けれど発信しなければ、またいつもの日々に戻って埋もれてしまう。どうしたら埋れた言葉や思いは、世に出ることができるのだろう。何かを変えたいけど僕には力がないのだろうか。
もちろん実りが何も無かったわけじゃない。
言葉や存在が強い人たちに、どうやって対等に議論ができ、我々を力を貸してもらえるのだろうか。
自分はこれから誰かの味方になりたいし、自分の思いや考えを知ってもらいたい。
自分自身の憧れも叶えたい。
でもそれってとても難しいのかもしれないなと改めて認識できた。
いつぞやかに、語るためにも”資格”が必要と書いたことがあるが、それはやっぱりそうだなと感じる。
大きな人やものと戦うって、突然言葉がでなくなる、言いたいことが言えない、1人では戦えにくいということがざらにあるし
そんなの関係ない!なんて思うけど
直面すると違う。
繰り返すが、本当に言葉を発する、思考する、目線を合わせるということが難しくなる。
それでも、番組内で「皆さんの言葉が強くて、言葉が出なくなった」と言えたのは僕の強さだとは思う。
そのことで少し空気を変えられた気がしたのは、唯一の成功点かもしれない。
どういう形であれ
何も持ち合わせていない
ただ語ることが出来た人間が
開かれているだろう場所で
力のある人たちと対等に話し合うことは難しい。
自分自身も力を持たなければならないということに気がついた。
あるいは支えが必要なのだと…
そうでなければ語ることが許されている場所でも、本当の意味で語ることが許されない。特に、力のある人達がいれば尚更。それは自分自身なりえてしまう可能性はあるが…
今回の出演で、しばらくは何もないだろう。
ただ僕は僕なりの視点で、語られていないものや語れないものを考えていこうとは思う。
その1歩が、社会福祉士だと思うし、同時にメディアやネットなどでできたらなと考えている。
もちろん難しいけれど。
またこのような機会があればいいなと思いつつ、自分は自分で頑張ろ。