見出し画像

働く・労い とはなにか

はたらくとはなにか

働くというと一般的に、会社の"労働者としての労働"を指しやすい。

  • 専業主婦・学生・老人・(身体・精神)障害者・はどうだろうか。

  • 非営利法人・ボランティア・サークル・といった非営利活動はどうだろうか。

  • 営利事業の営為前・転職活動期・失業給付期間・の計画準備段階はどうだろうか。

つまり字義からしても、人のために動くことを働くという。
そして、人のために動いたことにより労われることを労働という。

それに対し、多くの人は「それは理想論であって、金銭が発生することを労働」と定義する。


では、「労」=ねぎらい とはなんだろうか。

・公務員窓口の人はよく「ご苦労様です」と言葉を用いる。
・病床人は社会復帰のときに「ご心労おかけしました」という。
・国家によっては労いの一部としてサービス提供時にチップが求められる。

  • 金銭・事物をいただくことだろうか。

  • 感謝をいただくことだろうか。

  • 愛情をいただくことだろうか。

 どれも必要ではあるがバランスの問題といえる。滅私奉公精神に溢るる者は金銭より感謝、感謝より愛情、愛情より縁起であろうし、社会に還元され巡り巡りて私たちにも還ってくることがわかっている。
 もちろん金銭・事物が不要というわけではなく、生きるためにはエネルギーの対価としての金銭・事物が必要であり、動くことには尚更エネルギーを消費するからなおのことだ。愛や感謝でこころは救われるだろうが、肉体維持はできない。


働く理由に"奉仕"ということばが挙げられる。
奉仕とはなんだろうか。

漢字二つの複合概念だから意味があまり明晰ではない。なので音読みにしてみると、「まつり、つかえる」という。

・まつりというと、奉り・祀り・纏り・祭り・あたりである。
・つかえるというと、士に人偏がかかったもので、類推するに、道士・武士・学士・書士・同士・あたりであり、「志」は士の下に下心、つまり心の支えがあるから、これらを抽象すると生き方あたりである。よって、人の生き方の根幹あたりだろう。

( )道(士)
神道(士)・仏道(士)・修験道(士)・陰陽道(士)
武道(士)・茶道(士)・書道(士)・呪術(士)
武士(道)・騎士(道)
学(道)士=(博士・修士・学士・準学士)
書(道)士=(司法書士・行政書士)
同士=同じ士(の道)

つまり奉仕とは、おかみにまつり仕える人間らしい生き方である。
人間らしい生き方については、憲法及び法律が最低限を定めているのでその理解が望ましい。



ねぎらい について

 これは子どもや老人にも適用されることだが、金銭・事物のみを与えられるとなにか心のうちに空虚なものが生じる。よってさらに、穴を埋めるために金銭・事物を欲する。
 これを物欲といい、仏教十界のうちの四界を現世で輪廻することになる。またこれは動植物や人工物、自然にも適合するし、流行りの承認欲求という言葉も同意である。

1.子どもは殊更、愛情を与えられないで、欲してもいないのに金銭・事物ばかり与えられると、人生とは、人とはそんなものだと定義するようになる。つまり愛情の深みがわからない者となる。それでも穴を埋めるために愛を希求する行為、承認欲求だとか物欲だとかが生じるが、生じているうちはまだ心が生きているまともな人間だ。
 戦時・戦後復興期は衣食住を手に入れることで手一杯だったが、今ははたしてどうだろうか。時が止まっていると言うべきか。

2.老人に適用すると、死が近くまた人生経験によって、金銭・事物はさほど問題ではなく、より高位である情や愛を欲するようになる。老人がこれからを生きる後続の者たちにたいして過干渉をしたり、なにか遺そうとする。これらの行為は愛の顕在化である。それが上手いか下手かは、その老人の行為の後に観測者が感じ生ずるものである。


 これらを包括的に対処するに、老人も子どもも住まう家はたいへん理にかなっているのに、なぜ大家族をやめて核家族になってゆくのかわからない。この方向でいけば託児所や老人ホーム、ひいては塾なども縮小を余儀なくされるだろうが、総体でみれば合理である。

  • 国家としては、そこに投資する資本の削減が可能となる。削減したものは他所に流れる。

  • 人手不足の業界としても、そこの労働者や資本が減少すると相対的に、労働者の確保及び人的経済的資本や取引の一口が大きくなる。

  • 子どもを一人遊ばせておくスマートフォンやゲームという道具ですらも必要でなくなる。それらで遊ぶ子どもにとって、生きた心地、生の実感は形成されるだろうか。

 ポジティブ心理学あたりがいいそうなことだが、幸福度の高いものは幸福度の高いモノを生むことが可能である。これは社会的に言明すれば、等価なモノを生むことは持てる者の義務であり責任である。それを組織に適用すればコンプライアンスだとかCSRだとかその辺りをいう。また、幸福度の低いものは幸福度の高いモノを生むことができない。
 これを人に言い換えると、人格の器が大である(または、あろうと志す)もの、つまり大人は小人の師資となりてその内に、豊かさを生み育むことが可能である。これもまた義務であり責任である。また、小人が大人に豊かさを提供できるモノは少ない。
 はじめに大人があったのではなく、小人が大人であろうと志し、初志貫徹であるが故に大人たりえる。初志貫徹を忘れた者を人でなしという。


 ところで人は人間である。愛を欲すると共に愛を与えるものである。この愛というエネルギーの均衡が崩れると、人と人の間に不調和が生じる。仮に不調和が起きないとしても、その個人のうちの均衡が崩れ、不調和が生じる。
 その不調和が増大することにより、こころを病むもの、宗教に流れ着くもの、精神が腐敗するものが発生することは理である。まだ自殺よりはマシであるし、腹を切るよりはさらにマシだといえる。

 若者に足りないもの、社会人に足りないもの、老人に足りないものはなんだろうか。社会という個人の集合体は個人によって成り立つことから、国家の病というよりは一人ひとりの病である。

 私はなんら、一次産業者でもなく生産者でもなく社会階層の最下位あたりなので、大言壮語というご指摘を受けるだろう。甘んじて拝受すると共に、最下層であるからなおのこと問わねばならない。現状よりまだマシな社会、いや一人ひとりの人格の総体を築き上げるのは、社会の集合体である国家ではなく最小単位である一人ひとりの個人意志である。




物理学は物の理を超えて適用可能である。

2500字程度


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集