親馬鹿の戯れ言
隣家の家族に食事会に誘われた。兄のピアノ指導のお礼に、食事を振舞いたいと。兄は構わないと言うが、内心少し億劫になってるようだ。ピアノ指導という名目は行動する勇気に繋がるようだが、その建前無しに社交の場に出るのは気乗りしないらしい。譲歩して俺達兄弟の家で食事会を開くことにした。慣れ親しんだ場の方が少しは気が楽だろう。俺が料理を振舞い、隣家には美味しいワインを用意して貰う、そういう取り決めで隣家に納得してもらった。
当日、西岡家族は何故かドレスコードをして家に現れた。ラインナップはシャトーミニュティーのロゼにコンドリューの白、ムルソーの白…異常な気合の入り様に、少し嫌な予感がした。
振舞ったのはクスクス、カスレと言ったフランスの家庭料理だ。食中の談話から察するに、父は関白亭主、母親は因習的な夫の太鼓持ち、娘の瑞樹は従順で無口な子どもといった関係らしい。俺達兄弟は持ち前の外面の良さから、西岡父の中身の無い話を盛り上げる。兄は緊張とストレスで多汗状態だ。早めに切り上げよう…そう考えた矢先、西岡家の父が言った。
「ところで、先生はどんな演奏をされるんです?是非とも聞いてみたいなぁ」
兄はこういう場で演奏をするのを最も嫌う。酔いを口実に断ろうと俺が口を開こうとすると、兄は笑顔で答えた。
「いいですよ、何を弾きましょう。オーダーはありますか?」
「モーツァルトなんてどうです?」
「では、我らが11番を」
兄はお道化てみせる。どういうことだろう?兄が廊下の先の演奏部屋に移動し、西岡夫妻は拍手する。兄は弾き始めた。酔いを感じさせぬ正確な演奏を、豊かな感性の下に。兄の演奏に夫妻は最初こそ耳を傾けたが、第二楽章の中頃に、西岡父が俺に話しかけてきた。
「ところで…編集者なんですよね」
「え?あぁ、はい、私ですか」
「硬派な音楽雑誌も発行してますよね、確か」
「『ノーヴス・ミュジク』の事ですか?」
「…どうです、うちの娘なぞ」
「どう、というと」
「確か若手の特集とかやってますよね?そういった特集なぞに…ね?」
「はい?」
「いえ、勿論娘はまだ成長期ですが、顔立ちも悪くないでしょう?それに稀代のピアニスト、小野玲子の息子に指導して貰ったとなると、中々注目されると思うんですが…まあ、いつかの話です。万が一、縁が実れば…失礼、親馬鹿の戯言として聞いてください」
「ああ…」
娘、瑞樹を見やる。彼女は握りこぶしを作り震えている。きっと怒りと羞恥心から。そして俺も今、彼女と同じように震えている。この夫妻は兄の演奏を聴きたいからでなく、兄に席を外させる為に演奏を要求し、兄の演奏をBGM代わりに使っている。兄の経歴を、演奏を、指導を、自身が考える娘の幸福のために利用しているのだ。…なんて醜悪なのだろう。激しい嫌悪感と同時に、俺はある事実に気付いた。
俺と同じだ。
自分の考える幸福論を家族に押し付け、その為に他者を利用する。醜く、エゴイスティックで、独善的…俺は激しく動揺した。俺が混乱に飲まれ我を失いそうになった時、兄の演奏は第三楽章に突入した。かの有名なトルコ行進曲。無垢な子供たちが幸福に跳ね回っているような、温かみのある演奏だ。俺は平静を保ち笑顔を作る。
「生憎ですが、実は私部署を移動しまして、今はミュジクに関わってないんです。…ですが、昔の伝手もありますからね。掛け合ってみましょう。ご期待に沿えなければ申し訳ありませんが…」
「いえいえ、善処して頂けるだけでもう、ありがとうございます」
夫婦の顔は綻んだ。恐らく今日はこのことを伝えに来たのだろう。肩の荷が下りたように、額の汗を拭った。兄の演奏も終わりを告げ、食卓に戻る兄を各々拍手で迎える。
「素晴らしい演奏でした。流石小野玲子の息子ですね」
「感動しました」
夫妻が体のいい不躾な感想を言う。食事会はこれにてお開き、散会した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?