3年がかりの研究の末、勅令で定められた「国民服」とはー「事あれば第一線の戦場にも」との説明がすべてを表します
日中戦争開戦間もない1937(昭和12)年8月15日、国民精神総動員中央連盟理事会で、国民服制定と服装簡易化のための委員会設置を決定します。委員会の組織は翌年になり、さらに陸軍被服関係者でつくられる「被服協会」に引き継がれます。そして一般公募を経た形式でデザインなどを決定し、1940(昭和15)年11月2日、「大日本帝国国民服令」が公布されます。
男性用のみで、少し上等な甲号と、簡易な乙号の2種類があり、服装生活の簡易化を図るため、儀礼章をつければ礼服としての適用も可能で、天皇の前にでも出られるとされました。
甲号の場合、襟を立て襟にもできました。帯模様や縦型のポケットは、いずれも和服を意識しています。こちらのものは、長野県岡谷市で仕立てられたものです。
乙号は簡易な軍服という雰囲気で、仕上がりは青年団の団服などににた簡単なものでした。甲号、乙号とも、袴(はかま=ズボン)は共通。ほかに中衣も制定されています。色はいずれも国防色=カーキ色でした。また、烏帽子を模したとされる「国民帽」もありますが、これは戦闘帽でも良いとされました。
国民儀礼章も同時に制定され「八紘一宇」の精神をかたどったとされる古代紫の大和風組紐です。箱も桐箱のほか、セルロイドの簡易なものがありました。
国民服が勅令という国会を経ない内閣が直接出す法で制定されましたが、強制ではなかったので、まずは宣伝。1940年の「主婦之友」12月号付録に「勅令で新制定の国民服の作り方」という冊子が付きました。
実際の作り方に入る前に、国民服の狙いや思いが財団法人日本国民服協会指導部によって書かれています。行動しやすく日本人に合った服として2600年来の伝統を重んじ、諸外国の良さも取り上げたとし、「我が国古来の服装の要素を基調としてありますから、日本人なら誰が着てもよく似合います」としています。
たあ、本当の狙いは教育勅語にも出てくる「事あれば第一線の戦場にも、その服装が役立つ」というのが狙いで、上衣の色を国防色と限定したのは「一朝有事の場合に国防服に役立てるという趣旨に副ったことは申すまでもありません」と重ねて説明しています。つまり、いつ誰を動員してもすぐ役立てられるよう、ほぼ軍服の国民服を民間に蓄積させる狙いがあったのです。だからこそ、陸軍省が主導権を握ったのでしょう。
ただ、すぐに切り替えるのは逆に着れる服を無駄にすることなので、様子見もあり、太平洋戦争後の1942(昭和17)年に考現学の吉田謙吉が東京の銀座で行った調査では、洋服83%、国民服12%、和服5%だったそうで、国民服の本格普及は1944(昭和19)年末になってからだったということです(「昭和2万日全記録」より)。
幸い、本土決戦前の1945年9月2日に無条件降伏したことで、当初陸軍が描いた用途にほとんど使われることはなかったのが、せめてもの救いでした。沖縄では、どうだったでしょうか。