信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

「戦争の回避」を目的に戦時資料を収集、発信する長野県の有志で、政治的思想的団体とは無縁です。長野県を中心に戦時下庶民生活に関連するモノを代表が集め、将来のため発信中です。連絡はX(下段のXがリンク)のDMかsensou184@gmail.comへ

信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

「戦争の回避」を目的に戦時資料を収集、発信する長野県の有志で、政治的思想的団体とは無縁です。長野県を中心に戦時下庶民生活に関連するモノを代表が集め、将来のため発信中です。連絡はX(下段のXがリンク)のDMかsensou184@gmail.comへ

マガジン

  • 長野県出身の軍人・軍属たちー歴史の一コマとともに

    長野県出身の軍人・軍属も、全国各地と同様、多くの方がおられます。その中から、歴史の一コマとつながる場面で登場した方、さまざまな記録に登場される方、いろんな角度で紹介させていただきつつ、戦争の理不尽を訴えていきます。

  • 空襲から逃げるなと言って被害を拡大させた国の責任は重い

    1928(昭和3)年に初めての防空演習が行われて以来、人々に戦時体制をいやでも植え付ける狙いから防空演習が頻繁に行われます。が、日本の防空対策は人が待機して消火させるのが基本。民間人に防空を背負わせた結果、大きな被害が出ますが、戦後の裁判では「享受しうる範囲の被害」とされて放置されています。戦前の「国を守る」とはどういうことかが如実に現在にも受け継がれています。

  • 戦時体制下の教育

    徴兵制を敷き、帝国主義陣営として外征の連続となる明治からの日本では、教育も天皇を軸とした「神の国」と教えられ、わけのわからない「教育勅語」を覚えさせられ、有無を言わさず軍事教練と、精神面から肉体面から「戦争」前提だった、それが戦時体制下の「教育の柱」でした。

  • 信州戦争資料センター 中の人の思うこと、やってきたこと

    信州戦争資料センターは戦時体制下にあった日本の姿を、所蔵資料で公開し、見ていただいた方に後はおまかせするのが基本ですが、世の中の動きに黙っていられないときもあります。そんな、通常の枠にはまらない中の人の言葉や来し方のnoteをまとめました。できるだけ柔らかく伝えたいと思っています。

  • 関東大震災での虐殺を直視することが未来を開く

    関東大震災の犠牲者は10万5000人とされていますが、震災で生き残ったのに軍隊、警察。自警団などに殺害された朝鮮人、中国人、日本人のことは隠蔽されてきました。その結果、被害者を加害者呼ばわりする言説まで生じ、将来、同じ轍を踏む恐れが高いので、よりよい情報を提供させていただきます。未来のため。

最近の記事

  • 固定された記事

第8回展示会「戦争だ!女、子供も!ついでにビールも!」展、展示品を詳細に紹介。来られなかった方にも雰囲気を…

 2024年8月13日から18日まで、長野県長野市のギャラリー82で開いた第8回展示会の展示品を、会期の終了に合わせて記録の意味も含めて紹介させていただきます。実物の迫力を伝える、とはいきませんが、あの時代をモノにこうして伝えさせたんだなと、少しでも感じていただければ幸いです。そして、またの機会にはぜひ、その目でお確かめいただきたいと思います。  現在、戦争を主体的に兵士として担った方はごくわずかとなり、戦争証言も被害体験に偏りがちで、それすら近い将来は無理になります。今で

    • 日露戦争後、建造された「義勇艦」を知っているかーその後の国策の参考になった可能性も

       義勇艦というのは、平時は商船として活動し、戦時は海軍の補助艦艇として活動するというもの。ロシアの義勇艦隊や英国の船会社の制度に倣って、日本では日露戦争中の1904(明治37)年10月24日、帝国義勇艦隊建設趣旨要項が帝国海事協会総裁・威仁親王の令旨によって活動を始めました。  こちらは同じ時にまとめられた建設の趣旨と要項、創設委員会規定などをまとめた書類で、翌年の1905(明治38)年4月に帝国海事協会が印刷したものです。建設の趣旨では「戦時補助船舶(義勇艦隊)を建造し、一

      • 敗戦後13年しても、消息不明長野県関係者が1770人も記載されていた「未帰還者名簿」に見る戦時下、戦後の惨状

         こちら、1958(昭和33)年11月1日現在でまとめられた「長野県関係未帰還者名簿」です。中の人が手作業で数えていますので誤差があるかもしれませんが、軍人と民間人、合わせて1770人の未帰還者が記載されています。甲府市に軍隊サロンが開かれ、カラーの娯楽映画も上映され、ようやく余裕を感じられるようになってきたのが1960年のこと。そのわずか1年ほど前のことです。A4サイズで16ページにわたっています。  名簿は軍人軍属の部、邦人の部に分かれていて、所属部隊や終戦時の居住地、

        • 軍隊では、どんな歌を歌っていたかーそして戦後にも登場する、軍歌を歌える酒場とは

           軍隊でも、軍歌を歌うのは常の事でした。行軍中に軍歌を歌って士気を高めるといった狙いもあったでしょう。こちら、1939(昭和14)年10月20日に発行された「長野の教育絵ほどき 我等の軍隊生活」には、現役で入営した荒井一寿氏の絵による軍隊生活の紹介で、軍歌演習も出てきます。軍隊絡みの本や絵葉書を多数出していた長野紙工文具出版部(東京)の発行で、特に長野県とは関係ありません。  そこで、どんな歌集があったか。こちら「つはもの軍歌集 大東亜版」も軍隊関係の本を多数出版していた武

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        第8回展示会「戦争だ!女、子供も!ついでにビールも!」展、展示品を詳細に紹介。来られなかった方にも雰囲気を…

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        • 長野県出身の軍人・軍属たちー歴史の一コマとともに
          22本
        • 空襲から逃げるなと言って被害を拡大させた国の責任は重い
          38本
        • 戦時体制下の教育
          44本
        • 信州戦争資料センター 中の人の思うこと、やってきたこと
          26本
        • 関東大震災での虐殺を直視することが未来を開く
          6本
        • <戦時下の一品>ー逸品?珍品?皆さんでご判断を
          23本

        記事

          戦前、戦中の若者たちが歌った、さまざまな歌ー戦争の深まりによる変貌と、変わらないもの

           これまで収集してきた品の中で、歌集がいくつかそろってきました。とりあえず、おおむね同世代の青年たちが使ったであろう、いずれも長野県内の歌集から、変遷を見てみました。なお、年代が明確なのは1冊だけで、あとは収録曲などからの推測となりますこと、ご容赦ください。  まず、唯一製作年が1935年とはっきりしている、伊那町(現・伊那市)青年会・伊那町女子青年会の「歌集」から見てみます。  1935(昭和10)年といえば、国際連盟正式脱退や翌年の海軍軍縮条約期限を控えて「35、6年

          戦前、戦中の若者たちが歌った、さまざまな歌ー戦争の深まりによる変貌と、変わらないもの

          日露戦争中の信濃毎日新聞、軍・政府の報道に対する姿勢に連日苦言を呈すー「国民を愚にする勿れ」と「秘密袋」

           1904(明治37)年7月6日付信濃毎日新聞は、日本周辺海域に出没を繰り返していたロシア軍のウラジオストック艦隊を追跡していた日本の「上村艦隊」の公報を掲載します。  その翌日、7月7日付の信濃毎日新聞は、この上村艦隊の行動の発表方法を例にして、軍と政府の国民への情報伝達を徹底的に批判した社説「国民を愚にする勿(なか)れ」を掲載します。これは、その後の戦争や国際交渉でも、政府が一方的に情報を操作して国民ばかりか身内の軍まで騙してしまうようになり、都合の悪いことを潔く示すこ

          日露戦争中の信濃毎日新聞、軍・政府の報道に対する姿勢に連日苦言を呈すー「国民を愚にする勿れ」と「秘密袋」

          日露戦争中の信濃毎日新聞「生命を惜む可し」の社説を掲載ー死ぬことに価値があるのではないと、諄々と説く

           日露戦争中、長野県の地方紙、信濃毎日新聞は、日露戦争に賛成の立場であったが、中江兆民の反戦の講演会の報道もしているし、旅順攻防戦のさなかに「平和論」と題した連載も掲載し、比較的自由な報道をしているように見えます。そして、1904(明治37)年7月12日、一面の連載小説は「赤穂義士伝」で赤垣源蔵の徳利の別れの回だったこの日の紙面で、社説は副主筆佐藤桜哉の「生命を惜む可し(上)」を掲載します。赤穂浪士を引き合いに、戦死自体に価値があるあけではなく、それにより達成されることに意味

          日露戦争中の信濃毎日新聞「生命を惜む可し」の社説を掲載ー死ぬことに価値があるのではないと、諄々と説く

          写真技術が発達するも日露戦争中、長野県地方紙の信濃毎日新聞は版画で勝負。ライバル紙は写真別刷り附録で対抗

           写真の技術は幕末から日本に入ってきていて、明治期には各地に写真館もできますが、写真の印刷技術は現在の埼玉県出身の小川一真氏が1888(明治21)年、日本初のコロタイプ写真製版、印刷を始めたことから始まります。翌年に小川写真製版所を東京に開いています。1894(明治27)ー95年の日清戦争では、従軍カメラマンも登場していますが写真の送信技術がなく、印刷するのも小川写真製版所頼みでした。  長野県の地方紙、信濃毎日新聞の社史によりますと、最も古い確認されている写真印刷は1899

          写真技術が発達するも日露戦争中、長野県地方紙の信濃毎日新聞は版画で勝負。ライバル紙は写真別刷り附録で対抗

          戦乱の情報を伝えた錦絵やその流れを汲む版画ー庶民の「こういうのが見たい」欲に応えることの危うさ

           日本で新聞の第一号とされる「中外新聞」が発行されたのは慶応4年(1868年)2月24日のこと。木活字を使い、地図などを版木に彫って印刷、発行しました。新政府の上意下達のメディア「太政官日誌」の創刊翌日のことで、幕府寄りの人物による新政府への対抗策でした。そして報道の時代が始まりますが、江戸時代の瓦版の流れを汲む、錦絵や、もっと簡素な版画・石版画による戦争や事件の伝達も、まだまだ写真の印刷物が普及しない中では、庶民に受けていました。こちら、大阪の鈴木雷之助による西南戦争の大判

          戦乱の情報を伝えた錦絵やその流れを汲む版画ー庶民の「こういうのが見たい」欲に応えることの危うさ

          「主婦之友」1941(昭和16)年2月号に見る、国策迎合の編集による生き残りー国や軍が求めていた事がよく見える

           戦前、一番読まれていた婦人雑誌「主婦之友」は、戦時下、情報局の指導の下、国策迎合紙面に励んでいました。戦後、石川社長が「これが戦力になるのか!」と言われつつ、少しでも女性のための雑誌を送り出そうとしたという話を披露しています。しかし、たとえ紙の配給を国に押さえられ、情報局の指導に従わざるを得なかったとしても、一方では率先して戦争に協力していくかのような記事もたくさんあります。  戦争が一度始まれば、挙国一致の渦に飲み込まれるばかりではありません。むしろ、一緒に太鼓をたたいて

          「主婦之友」1941(昭和16)年2月号に見る、国策迎合の編集による生き残りー国や軍が求めていた事がよく見える

          潜水艦のごちそうだった「うなぎの缶詰」を試食したー「潜水艦気質よもやま物語」にちなんで

           仕事から帰ると、妻が「今日の夕食は『うなぎの缶詰』ね」と言うではないか。実は以前、日本海軍の潜水艦の「潜航食」の代表であった「うなぎの缶詰」をいつか食べたいと探していたところ、ネット検索で見つけて、いい値段がするものの、思い切って中の人が買っておいたものなのです。先月末で賞味期限切れということで、まだ2週間も経ってないから、これを食べようということになったのでした。買ったはいいが、もったいなくて食べるタイミングを失していたところだったので、これはやむを得ない。貴重な試食とな

          潜水艦のごちそうだった「うなぎの缶詰」を試食したー「潜水艦気質よもやま物語」にちなんで

          太平洋戦争開戦の詔書を、当時の価値観で解釈した本で読むー「天祐は歴史的事実」とかいっちゃってる人の文ですが…

           1941年12月8日、宣戦布告前にマレー半島のコタバルへの奇襲上陸で始まった太平洋戦争ですが、戦を宣するのは天皇によって行われるというわけで、天皇による対米英への宣戦の詔書が出されるわけです。独特の言い回しであり、その意味を解釈するのは当時の人でも断片的でした。そこで、翌年1月2日の閣議で毎月8日を大詔奉戴日と決定し、この日には詔書を読むようにとしたので、より内容を正しく伝えようと、解説の冊子が国学院大学院友会によって作られました。  著者の山本博士は神道の研究者でした。

          太平洋戦争開戦の詔書を、当時の価値観で解釈した本で読むー「天祐は歴史的事実」とかいっちゃってる人の文ですが…

          敗戦後に届いた、陸軍大臣感謝状配布の依頼

           戦時下、さまざまな団体や個人が戦争遂行のため、進んで、あるいは強制的に、さまざまな献金や献納をしていました。こちら、長野県中沢村(現・駒ケ根市)高齢会が1943(昭和18)年12月に取りまとめた陸軍への飛行機建設資金献金名簿です。各区の高齢会が出した献金者名簿をとりまとめた冊子ができたので、回覧をするようにとしています。  中沢村に11の区があり、合計7,023円(現代でみると700万円以上か)となっています。誰がいくら出したかすぐ分かります。これでは出さないわけにはいき

          敗戦後に届いた、陸軍大臣感謝状配布の依頼

          太平洋戦争末期、学徒の勤労動員から学校の工場化まで行われていました

           太平洋戦争は、大日本帝国が初めて直面した国家総力戦でした。そして若者は最初は適齢者や少年兵として前線へ、そしてさらに下の若者は生産現場へ、そしてとうとう学び舎が工場となるに致り、敗戦を迎えます。  長野県でも、各地の中等学校(現在の高校に相当)が工場化されました。長野市でいえば、陸軍被服廠の下請け工場が疎開してきて、長野高等女学校(現・長野西高校)はミシンを並べて軍服作りをしています。篠ノ井高等女学校(現・篠ノ井高校)は無線機の工場に。また、松本市では松本工業学校(現・松

          太平洋戦争末期、学徒の勤労動員から学校の工場化まで行われていました

          なかなか思考とは変わらぬものと知る、戦前の新聞コラム

           表題写真は、1941(昭和16)年12月20日発行の絵本「日本ヨイ國」から取った部分です。  既に日中戦争の1937(昭和12)年の開戦から4年、多くの都市を制圧し、傀儡政権の汪兆銘政権が南京にできていたころです。満州国や中国と「仲良くしてゆこうと、一生懸命に尽くしています」と、どの口が言うかという感じを受けます。そもそも、「支那」と呼ばず「中華民国」なので「中国」と呼んでくれというのは、ずっと出ていた苦情でした。  笠原十九司氏の「日中戦争(上)」では、中国が「民国」で

          なかなか思考とは変わらぬものと知る、戦前の新聞コラム

          興亜奉公日から大詔奉戴日へー臣民の戦争への関心維持に、あの手この手。そして追従した情けない新聞の姿

           1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件を発端として始まった日中戦争も終わりが見えず、国内ストックを消費して民需物資の不足が顕著になってきた1939(昭和14)年、9月1日から毎月1日を「興亜奉公日」とすることが8月8日に閣議決定されました。長野県永明村(現・茅野市)役場も、防火呼び掛けを兼ねて趣旨を伝えるチラシを作製し、配布しました。  日中戦争の行き詰まりを「東亜の新秩序建設」という言葉でごまかし「国民はこの一大自覚の下に此の時局に處するの決意を新たにするべきなり」

          興亜奉公日から大詔奉戴日へー臣民の戦争への関心維持に、あの手この手。そして追従した情けない新聞の姿