全部、空から降ってくればいいのに
書店のエッセイコーナー。
そこでは『心を軽くする方法』みたいな本がずらーっと並んでいる。
自己啓発系の類だ。
どうも僕はそれがしっくりこない。
理由は色々と思いあたる。
プライドの問題とか、期待してないだとか。
でも多分、もっと根本的なところで躓いている。
そもそも、
悩みを解決しようと思わないのだ。
「どうしたいの?」と聞かれても答えられないことばかりだ。
*
上手くいってないことはたくさんある。
毎日焦りはあるし、自己嫌悪の連続だ。
きつい時は本当にきつい。
けれど、わざわざ闇から抜け出して、光を目指そうと思えない。
例えば、部屋の電球が切れたら、普通なら買いに行くだろう。
でも僕の場合、電球が切れたら豆電球で生活をするようになる。
「目が見えない分、他のことに集中できるな?」とか、
「災害時の練習になるよね」とか、
「自然と腰が上がるまでは待つって決めてるしなあ、、、」とか、
何かしら肯定する理由を引っ張ってきて、現状にだんだん慣れていく。
不便さから目を背けて、与えられた状況を肯定する。
解決に向けて“ちゃんと考える”ということが向いていない。
その他、仕事選びも恋愛も、だいたい時間が解決するまでじっと待っている。
少し前までは、元気がないからだと思っていた。
人生に疲れて、考える気力が出ないのだと。
回復すれば考える力も戻ってくるだろうと思っていた。
だからたくさん寝るようにした。毎日好きなだけ。時間にすれば9時間ほど。
でも思い出した。
戻るも何も、僕は生まれてからずっとこうだ。
全く、どうしようもない人間だ。
とはいえ、別の言い方をすることもできる。
ある意味では、状況を受け入れている。
究極の“あるがまま精神”。
不器用なことには違いないが、こういう生き方もあっていいと思う。
自分がいいなら、なんだっていいのだ。
、、、ほら。
また逃げ道作って現状肯定した、、、。
こういうところなんだよね。
まあいっか。
何が正しいかなんてないし
*
僕の生き方は日本人らしいかもしれない、と思っていたらちょうどいい文献があった。
和辻哲郎という近代思想家をご存じだろうか。
「地域風土が人格形成に与える影響」を研究した人物である。
彼の著書『風土』では以下のように、環境によって3種類に分類されると考察している。
日本は「モンスーン型」に該当する。
つまり、日本は自然災害も多いが、その分自然からの恵みも多いから、自然という圧倒的な存在に従うことしかできず、受容的な人間になるというのである。
ああ、これだ。
そう、僕は受容的なのだ。
厳密には“受動的”の方が近いかもしれない。
自らの意志で幸せを掴みに行こうとする気概がまるでない。
別にどうなってもいいのだ。
お金が降ってきてもいい。
災害が降ってきてもいい。
どちらも大差ない。
苦しくていい。
気が向いたらなんとかするけど、気が向かないならそのままでいい。
無理しないことが一番。
趣味や知識が広がっていかないのもきっとこれが原因だ。
こんなことを言うと「穏やかに生きたいのね」と言われることがある。
ただそれは違う。
あくまでのんびり生きたいだけで、
僕は牧歌的で平和な世界に生きたいのではない。
心の奥では刺激を求めている。
何も成さず、後悔ばかり残して死んでいくことの方が嫌だ。
とはいっても、自ら刺激に飛び込むほどの気合いはない。
だから自分が動かずとも、喜劇も悲劇も全部、空から降ってくればいいのに、とずっと思っている。
こんな情けないことを言うと意識高い人からはこう言われる。
「幸せは自分の力で掴みにいかなきゃいけないよ」
そうね、
「じゃあ僕は幸せにならなくていいや。」
「でもこうして“能動的に”書いているじゃないか」
ね。
書くことだけは、僕にとって特別な存在だ。
受動的とはいえ、何もしないのって案外難しくて、
物思いに耽っていたり、塞ぎ込んでいたりすると、
何か閃きが降ってくる時があるのだ。
その閃きは残したいと思う。
僕にとっての数少ない原動力だ。
書きたいことをすっきり吐き出せるのって楽しい。
きっと書くことは僕の人生の主軸になっていくことだろう。
*
「幸せになりたいわけじゃない」
こういう生き方もありだろうか。
別に、幸せにならないぞ!と決めているわけでもない。
願っているだけではチャンスが逃げていくのは経験上知っているから、自ら掴みに行くことは全然ある。
だけど根底にあるのは、悲劇でもいいから降って来いと願う受動的な人間像なのだ。
神様神様仏様。書くネタをください
私は動きたくありません。