寺山修司さん、「野球の時代は終った」のでしょうか?彼の命日に問いかける。彼の真意は「する野球」という名の「対話」の復権
拝啓、亡き寺山修司様
お亡くなりになられて、今日がちょうど41年。詩人や劇作家など多分野で活躍された寺山さん。ファンは、生前のあなたを知らない若者も含めて、いまだに多くの人がいます。
さて、寺山さんが天国にいらっしゃり、地上のスポーツを見ていらっしゃるだろうと、私は思っているのですが、一つ質問があるのです。
「野球の時代は終った」のでしょうか?これについては、寺山さんの書いたエッセーから質問させていただきたいのです。同じく亡きノンフィクション作家の山際淳司さんが1991年に編集した「スタ・メンはおれだ」という文庫本に、寺山さんの作品も含まれています。
そのエッセーのタイトルが「野球の時代は終った」です。作品が書かれたのは1963年。すでに半世紀以上が過ぎています。当時と現代では時代状況が大きく変わっているのですが、この作品を読んで、私は寺山さんに質問をする一方で、あなたの意見に納得するのです。
寺山さんの作品名は「野球の時代は終った」ですが、あなたは野球そのものを否定してはいないからです。
「野球」はあくまで人の生き方への比喩であり、「野球」という言葉を通じて、寺山さんは人々の生活態度に対して、大きな疑問符を呈しているのです。
この作品の中で、発話することのできない二人が、キャッチボールを通じて、対話していることが描かれます。その対話を阻もうとするのがバッターという存在。打者に打たれたボールは遠くまで行ってしまい、戻ってこなくなります。
それを見かねた「7人」が打者によって打ち返されたボールを捕球することで、2人のキャッチボールが続くようにと応援するのです。
そう、野球の守備における9人の関係性をドラマ仕立てにして書いているのです。
そこで寺山さんが言いたいことは何なのか。それは「見る野球」でなく「する野球」の重要性です。では「する野球」とは何か。それは、発話することのできない二人によるキャッチボールという形の「対話」です。
現代における「対話なき社会」。これを野球という形をとって、寺山さんは批判しているのです。「スタ・メンはおれだ」の解説で、山際さんは「寺山修司さんのエッセイにしても、ちっとも古さを感じさせない」と書かれています。
寺山さんがエッセーを書いたのは1963年。そして、この作品を山際さんが「スタ・メンはおれだ」の中に盛り込んだのは1991年。寺山さんが作品を書いてから約30年が過ぎても、山際さんには、古さをまったく感じなかったのです。
そして、現代の2024年。寺山さんがこのエッセーを書いてから60年が過ぎても、彼の思いは十分に力があります。「対話なき社会」への痛烈な批判。活字を通じた寺山さんの主張に、私も猛省しています。
寺山さん、あなたの作品はこのエッセーにしろ、短歌、俳句、戯曲などにしても古臭さを感じません。だからこそ、若者を含めて、あなたのファンが多くいるのです。
昭和に亡くなった寺山さん。平成の時代を過ぎて、令和となっても、あなたの作品には力があるのです。
スポーツを通じて、社会について訴えた寺山さん。私もそのような作品が書ければと日々努力しています。
いつか寺山さんのような作品が書けることを夢見て、これからも精進していきます。
どうか、これからも見守っていてください。
敬具
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