オレンジの香り
このまえの週末、家にオレンジジュースがあったのでひさしぶりに飲んでみた。
紙パックにストローを突き刺し、ちう、とぬるいジュースを吸い込むと、オレンジのみずみずしい甘さの後ろにちょっぴり苦味を感じて美味しかった。私はなぜだか、りんごジュースよりオレンジジュースの方がどこか少し大人びている気がする。昔からずっと。
オレンジジュースを飲むと、私は江國香織さんの小説「きらきらひかる」を思い出す。
主人公のひとりである笑子が、紺くんと睦月の話をしながらオレンジジュースを作っているシーンがあるのだけれど、そこがすごく印象的なのだ。
笑子は睦月の奥さんで、しかし睦月は男の人が好きなので紺くんと付き合っている。一方の笑子はひどいアル中で、睦月と笑子は互いのそんな一面を理解し、そのうえで結婚して一緒に暮らしている。
夫の恋人である紺くんと、妻の笑子が、睦月のことを話しているこの場面のつづきに、オレンジジュースが出てくるのだ。
笑子が作ったグラスいっぱいのオレンジジュースをごくごく飲み、「これ、カリフォルニアオレンジ?」と訊く紺くんに、笑子は「そうよ」と言うのだけれど、本当はそんなこと知らない、と思っている。
恋人の妻にはなれない紺くんと、夫の恋人にはなれない笑子。
キッチンを満たす、オレンジジュースの豊かな香り。
私はオレンジジュースを見るたびにこの場面を思い出して、「きらきらひかる」を熱烈に読み返したくなってしまう。
紺くんが飲んだジュースのオレンジは本当にカリフォルニアオレンジだったのだろうか、とか想像したりするのもおもしろい。
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今日のnoteはつれづれなる日記なので、ここからまたオレンジジュースとは全然関係のない話になってしまうけれども、気にせず書いていくことにするね、たまにはそういうのもいいでしょう。
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最近、道ゆく人々の着ている衣服が、薄くて風をよく通すものになり、足元もサンダルのひとが増えてきている。それが目に楽しい。
夏は暑いからすごくくたびれるのは事実だし、だからあんまり好きじゃないというひとも多いと思うけれど、私は夏が好きだ。だって夏って全部がきらきらしているのだもの。
RADWIMPSもこう歌ってる。
とは言いつつ、私は人一倍汗っかきなので、中学生や高校生だったころの体育の授業のあとは毎度汗でだばだばだったし(洒落にならないレベルなのです)、それどころかいまだに学校に登校するわずか10分程度で汗をかき、前髪はぐちゃぐちゃになってしまう。
それに、たとえ日焼けしたくなくても夏に長袖なんて絶対に着れない。だって暑いんだもの。長い袖が腕を覆っているのはすごく鬱陶しいのだ。
冬は寒さを防ぐために肌をぴたっと衣服で保護してしまわなくてはならないから、夏はその分、できるだけ身体が空気にさらされているのがいいなあ、と思う。
そろそろ梅雨に入りそうなのでもう危ういな。
湿気がたっぷりなの、困っちゃう…
それくらいに汗っかきなので、私と夏との相性はたぶんよくない。
けれど夏という季節そのものが私はだいすき。
汗をかくからとか、暑いからという理由で嫌いになんてなれないくらい、夏はパワフルで鮮やかで、ドラマチックな季節だと思うのだ。
春や夏が好きで冬が苦手だということ、たびたび言っているので、フォロワーさんには「もうそのお話はうんざり!」と思われているかもしれないけど、何度でも言ってしまう。
夏の始まりもいいけれど終わりごろのものさびしい感じもすごく好きだ。夏の終わりにする手持ち花火の目がちかちかする瞬き、煙のにおい。
はやく夏がこないかな。
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最近私はすごくくたびれていて、それはなぜかというと、教育実習真っ最中だからということが最も大きい。昨日、研究授業が終わり、明日から2日間はお昼までの時程なので、実質もう自由の身のようなもの。
明日からは授業見学や朝礼・終礼に専念できる。しかしまだすべては終わっていないので、教育実習のことはみんな済んでからきちっとnoteにまとめようと思う。
ただいくつか書くことが許されるのだとすれば、まず生徒の前に立ち、ひとりで50分間も授業を進めていくというのは、想像を絶するほど大変なことだと痛感したということ。
そしてその大変さとは裏腹に、生徒たちが休み時間や下校のときに私を見つけて「こんにちは!」「先生さようなら!」と言ってくれる、あの可愛らしさといったら、本当にたまらないということ。
私が教育実習であれこれ学びにきているつもりでも、生徒たちから見たら私は紛れもなく「先生」なのだということをここ最近実感している。
そして私のことを「先生」と呼んでくれる子たちが(高校での実習だから、年齢もたった4つとかしか変わらないのに)いるということが、私をきゅんとさせる。
先生ってこういうことを糧にしているのではないかな。
いま私は研究授業を終えて心身ともにとてもくたびれているけれど、ふがいなくても逃げずによくぞやりきった、という気持ちも生まれているのは確かで、今夜は自分を甘やかしてぐっすり眠ろうと思う。
教育実習で感じたこと、考えたことは、また別日に記録します。
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そうだ。
数日前、最果タヒさんの詩集と、岡野大嗣さん、笹井宏之さんの歌集をAmazonでぽちっと買いました。これを楽しみに、私は研究授業とそれに付随する支度をがんばったのだ。昨日の段階で届いていたのにページをぱらぱらめくることさえ我慢したからえらいと思う。
そして最近私はSaucy Dogに手を出しました。ひとまず「レイジーサンデー」と「ブルーピリオド」というアルバムを買った。
最初は「シンデレラボーイ」から入り(ミーハーでごめんなさい…)、気になっていたのでようやく他の曲を聴いてみようと思った感じです。重すぎなくていいサウンドだなあ、っていうのが今の印象。
思春期はもっと重たい、胃もたれしてしまいそうな楽曲を好んでいたはずだから、すこし大人になったのかも。
私は純粋にその音楽を聴きたくて聴くというのに加えて、人生における「ある特定の時期」を彩り、その時期を後で思い起こすために音楽を聴くというところがある。
たとえばRADWIMPSを聴いたら中学時代を思い出すし、Mrs. GREEN APPLEの「青と夏」「春愁」なんては高校時代の記憶を引っ張り出す鍵になる。私にとっては小説も、においも、太陽の光加減や空気の湿っぽさ、音楽だって、すべて何かを思い出すための鍵なのだ。
だから私はこれから先の人生、Saucy Dogの曲を耳にすると大学時代を思い出すことになるだろう、たぶんね。そういうやり方で音楽を自分のものにしているのです。いつからだか忘れちゃったけど。
Saucy Dogで今好きなのは「なつやすみ」って曲です、出だしのさわやかな感じと歌詞がいい。また夏の話になっちゃった。
そんなにも夏を待っているのか、私。
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もうひとつだけ、最後に書かせてほしい。
昨年の水無月の頭、ちょうど今くらいの季節、私の又従弟にあたる男の子が亡くなった。あれから1年が経つなんて信じられないし、その痛みはまだ胸に宿っていて、ことあるごとに思い出してしまう。
そのとき私は満足に彼の死を語ることができなかった。noteも書いたけれど、何をどう書けばいいかちっとも分からなかった。
あまりにかなしくて、沈黙でしか彼を悼めなかったのだ。たった1度しか会ったことも、抱っこしたこともなかったのに。
彼は言葉を覚えるどころか、自分の足で立つことも、はいはいすることもなく、たった8週間ほどの刹那的な生を駆けて行ってしまった。
彼の死はどこまでもいつまでもかなしく、私は今でも、彼が成長したらどのようなまなざしで、どのような声で言葉を紡いだだろうかと、暇さえあればそんなことばかり考えている。
「兄弟は他人の始まり」というから、血を分けたはずの兄弟姉妹はすこしずつ離れて行ってしまうものだ。しかし、だとしても私と彼には同じ血が流れていたし、彼は実際、本当にかわいい赤ちゃんだった。
そんな子が、葉っぱも空もきらきら輝き、水田には若い稲が青々と風に揺れる、そういうまぶしい時期に逝ってしまった。
それが私にはどうしようもなくかなしいのだ。
生命の息吹の満ちた世界で、生まれたばかりの子が死を迎えること。木が青々とした葉を茂らせるほどにその下の影が濃くなるように、その対比はあまりに鮮烈すぎて、私は余計に胸をえぐられた。何を言っても陳腐になるから何も言えなかった。
彼のお通夜とお葬式のために奈良へ駆けつけたその夜、私と私の母は、彼と彼の母が眠っていたであろうベッドを借りて眠った。彼の母は、彼の眠る棺の横で一夜を過ごしたからだ。
ベッドには小さな赤ちゃんが眠るためのスペースがあり、そこにおしり拭きが置いてあったから、彼がここで眠っていたということは明らかだった。
それを想うと涙が出て寝つけなかった。
その翌日、私は朝の光で目覚めた。静かな朝だった。カーテンの向こうから差し込む光が、窓際の机の上に飾られていた彼の姉たちのプラスチックのお城を通過していた。おもちゃのお城が朝日を浴びて、透き通った水色に輝いていたあの光景を忘れられない。
彼女たちは弟がいなくなってもそのおもちゃで遊ぶだろう。しかしそれを想像するとなんだか泣けてきて、もうどうしようもなかった。
彼のふたりの姉たちが、その後もすこやかに育っている様子を時折風のたよりで聞くと、それは本当にすばらしいことだと思う。彼女たちは愛くるしく、笑顔がとてもよく似合う女の子だ。
私は又従姉妹たちに普段滅多に会えないし、それもあって今後、私たちは少しずつ遠のいていってしまうのかもしれない。
しかし彼女たちが、どうか若葉が伸びるように成長し、やがて大人になっても幸福で満たされていますようにといつも願っている。
私は願って見守るしかないのだ。
彼女の弟もどこかで彼女たちを見ているのだろうか。形はなくなってしまったけれど、風や水の中に生きているだろうか。そうしてそよ風になって姉たちの栗色の髪をさらったり、雨になってほっぺたに落ちたりするのだろうか。
私は水無月の真ん中でまたひとつ歳をとる。
誕生日が訪れるたびに数字が増えていく私と、ひとつも年齢が増えずに逝ってしまった彼とは一体なにが違ったのだろう。これからこの季節になるたび、おそらく私はそんなことを考えずにはいられないのだ。
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いろいろ書きたくて散らかっちゃった。
しかしまあよしとする、ことにする。今日も私はよくがんばったし、みなさんもよくがんばった。今日を生き抜いてふたたび眠りにつくだけで私たちは、尊くて、えらい。
だからうまく力を抜き、深く息を吸って同じだけ空気を吐き、そうやって自分の身体をいたわることを忘れないでいましょう。
ときどきつらいこともあるけれど、日々に転がっているわくわくを逃がさないように瞳をきらきら輝かせていたいなあ。
みなさんが今夜うまく眠りにつけますように。
今日の日記は、これでおしまい。