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「頑張っている自分」からの卒業

「頑張っている自分」を2021年に置いていくことにしました。

これはこれまで僕が自分自身の抱えている悩みや葛藤に対して、科学的なアプローチを学び・取り入れながら向き合ってきたプロセスと現時点でのその結果をつづる心の中のダークな部分とライトな光属性の両方を併せ持ったテキストです。

まえがき ~自分の心と向き合うスキル~

2021年の10月からとあるコーチング講座を受けています。

受講の理由は、これまでコーチングと呼ばれるものを何回か受けさせてもらったことがあり、その有用性を身をもって感じていたこと。

ただ「自分もコーチングができるようになりたい」と思ったわけではなく「自分の内面と向き合うスキルを身につけたい」と思ったからです。

コーチングはそれを提供する相手の人生に大なり小なり関わり、その人の抱える悩みに正面から向き合い、その人の目指すゴールに向けて共に伴走していくものですが、誰かの人生を良い方向に導こうとするのであれば、まずはコーチ自身が自らの内面ときちんと向き合い、自分自身を良い方向・良い状態へ導けていけなければなりません。(この文章をお読みのあなたもきっとそうじゃない人からコーチングを受けたいとは思いませんよね?)

昔から勉強や進路、働き方の相談などを受けることもちょくちょくあるので「自分の親しい人や自分を頼ってくれる人の力になりたい」という気持ちもありますが、第一義的には「自分自身を良い状態へと導くスキル」を身につけたいと思って現在進行形でコーチングの学習に取り組んでいます。

今はコーチングを学ぶ中で「メンタルモデル」と呼ばれる認知心理学の領域や「Acceptance and Commitment Therapy(ACT、アクト)」を始めとする認知行動療法、さらには行動分析学やセルフコンパッションなどなど、人の心の仕組みや悩みの構造についての学術的なエッセンスをもとにして少しずつ学び、実践を重ねています。

この認知行動療法のACTには、仕事上のコミュニケーションに悩んだことをきかっけに数年前にワークを行い、自分の抱えていたトラウマを受け入れるとともに大きな内面の変化を感じることができていました。

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2019年9月に行ったACTのワークのメモ

※このワークをしたときの感想投稿はこちら

最近ではそこからさらに学びを進め、新たに得た知識をもとに自分と向きあうことで、前にも一度トラウマを乗り越えたときに匹敵するくらいの大きな内面の変化があったのでそのことについて書き残しておきます。

自分の抱えていた不本意な現実

ここで言う「不本意な現実」とは、一般に言う「悩み」みたいなものですが、

・頑張っているのに「なんかうまくいかないなあ」「残念だなあ」と思うこと

・結果としていつも繰り返してしまっているパターン

といった意味合いを含んだ言葉として捉えています。

僕の場合、それは次のようなものがあります。

・SNSなどで自分へのフィードバックコメントを見ない(自分で投稿したのに通知が来るとそれを見ずに放置してしまう)

・自分が送った仕事のメールであってもその返信を見れない(返信を見るのをいつまでも先延ばしにしてしまう)

・自分の中で一定の基準に達するまでアイデアや成果を人に見せない(やっていることの共有や報告、発信に消極的になってしまう)

まあ、一言でいうと、「人の反応がめっちゃ気になる」ということです。

そして、とても厄介なことに「人の反応を気にしてもしょうもない」と頭では分かっているのに、それでもどうしても人の反応が気になってしまうのです。感情レベル、あるいは無意識のレベルで先ほど挙げたような状況を全身が避けようとします。

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やらなければいけないと思いつつ時間がどんどん過ぎ去っていくイメージ(写真は落合洋一さんの「未知への追憶」展にて撮影)

結果として、自分が何かうまくいってもそれが広がらずにしぼんでいってしまったり、周りの人に協力してもらうことができずに結局は元の状態に戻ってしまうということがよくありました。

例えば、英語の学習教材を作ったのに作るだけで満足してしまって実際にそれを提供することにはコミットせずに終わってしまったり、書籍の出版をさせて頂いたときもそれをきっかけに多くの人とつながりを作ったり、そうして生まれた交流から更なる学びを得たり、多くの人に書籍を手に取ってもらうためのアプローチももっと色んな方法が考えられたはずです。

でも僕はそうしなかったし、より正確に言えばそうすることができませんでした。

思い込みという名の呪縛が生み出す負のループ


この不本意な現実の厄介なところは、さっきも書いたように「頭では分かっている」にもかかわらず現実にはためらいや躊躇、それを回避する行動が発生してしまう点です。

いったい何がこの不本意な現実を生み出していたのかというと、それは

「世の中にポジティブな影響を与えられることこそが自分の価値である」

という自分の考えです。

今はこの考えを俯瞰して、必ずしもそんなことはないと思えるようになりましたが、ついこの前までの自分は本当にこの価値観に捉われてしまっていました。

この価値観の一体何が残酷で、どう自分を苦しめていたのかというと、

「世の中にポジティブな影響を与えられることこそが自分の価値である」

と信じているということは、裏を返せば

「世の中にポジティブな影響を与えられない自分、ありのままの自分には価値がない」

と思っているということだということです。

なので「自分は周囲にポジティブな影響を与えられていない」という現実を目にすることは、自分の価値や存在を否定されるレベルで怖くて、何とかそれを避けようと「周囲にポジティブな影響を与えるための行動」をがむしゃらに行っていました。

会社の仕事だったり、自分の勉強だったり、会社の外での活動だったり、セミナーや勉強会への参加だったり。

何か生産的で有意義な活動を行っていると自分が感じられるときには安心感を覚える一方で、そうできないことが怖くて、そんな日があったときには何とも言いようのない自己嫌悪に駆られてしまうのでした。

それだけがむしゃらに頑張ったとしても、何かを完璧に達成するなんてことはありえません。なので、自分のアウトプットに対して返ってくる反応の中に良い反応があったとしても、何かしらの改善点やよくない部分も当然あります。

それに加えて、自分自身の価値の尺度が「世の中にポジティブな影響を与えられているかどうか」である以上、「周りの反応を気にしてもしょうがない」と頭ではわかっていても、周りの反応を気にすることからどうやっても避けて通ることができないのです。

もしもそこでネガティブな反応が返ってくるのを目にしようものなら、それはつまり無条件に自分には価値がないということを認めざるをえないことであり、存在レベルで自分を否定されることだと無意識下で思い込んでしまっていたのです。

完璧なんてありえないから当然ネガティブなフィードバックも返ってくる、そして自分の価値基準が他人の評価に依存してしまっているので必然的に自分には価値が無いというジャッジをするしかない、だからもっとクオリティの高いアウトプットを出そうとする、でも完璧はありえない・・という無理ゲーな世界がそこには広がっていました。

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「人から認められること」が価値なのではない、ピアノが気付かせてくれた頑張らない生き方

人に認められない自分には価値が無いと思って、価値があるかどうかを全部人に託して、自分の存在価値を人にゆだね続けている限り、本当に自分には価値があると思える日は永遠にやってきません。

このループから抜け出すためのヒントは「自分がやっていて楽しいこと」「誰の評価も、誰の賞賛も関係なくやっていること」にありました。

僕にとってそれがピアノでした。

ピアノは小学校の6年間に不真面目ながらも習ったきりでしたが、ちょうど1年前の2020年12月にピアノを再開して、近くの音楽教室でレッスンを受けるようになりました。

そこから仕事の合間に細々と練習を続けていたのですが、この1ヶ月くらいの間に大きな転機が訪れます。

今年の10月に開催されたショパンコンクールの映像を数週間ほど遅れて追いかけていたのですが、その中のどこかでピアニストの反田恭平さんか角野隼人さんが次のような言葉を口にしていました。

「ピアノを弾くときに同じ音を出す人はいない。1万人の人がいたら1万通りの音がある」

この言葉を聞いた時に思い浮かべたのが辻井伸行さんのドキュメンタリーか何かで、ある指揮者の方が辻井さんの演奏を「心の奇麗さが音に表れてる」といったコメントをしたシーンです。

「じゃあ、自分の音はいったいどんな音なんだろう?」

「自分にしか出せない音を響かせてみたい」

「その音が誰かの喜びや幸せにつながったら・・」

そんな感情が自分の中にふつふつと湧き上がってきました。

ピアノがうまい人は世の中に数えても数えきれないほど存在しますが、ピアノに関してはそういった人たちと自分を比べたり、自分のうまさを気にする感覚があまり無くて。

こんなことを考えていたら、テクニックやノウハウもあるけれど「自分にできる精いっぱいの演奏をすることで感じる歓びや満たされている感覚そのものが大きな価値なんだ」と気付くことができたんです。

他の誰かの真似をしようとしても、自分の音しか出せない。

これはピアノに限った話ではありません。

「完璧を目指して、自分の価値を人にゆだねて、ただひたすら頑張っている自分を生きる」生き方と「自分の音を出すためにそのときその瞬間に自分の内面あるものにつながり続けて、その歓びを表現していく自分を生きる」生き方。

これまでずっと前者の生き方に捉われてしまっていましたが、自分の生き方はいつだって選べる。

自分が選択して「こうしたいんだ」と思うことであれば何やっててもいいんだ。

価値を出すため、人のため、何をするか、何をすべきか、考えて、思考を回して、永遠にたどり着けないゴールに向かってずっと完璧さを求めて走り続ける。

そうやって頑張っている自分に疲れてきました。

なのでこれからは「自分の音を響かせる」という生き方を選んでいこうと思います。

自分にしか出せない音なんだから、人に何を言われようが関係ない。

そもそも「自分にしか出せない音を響かせる」というか結局は何をどう頑張っても「自分に出せる音しか出せない」んです。

70億人いたら70億人の音がある。

みんなそれを響かせて生きているし、自分もそれを響かせて生きていきたい。

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ヨガ教室のメンバーに囲まれて@シモキタまちピアノ 

今まではそういう生き方ができていなかったから、僕の魂がピアノを弾くことを求めて、メッセージとして気付かせてくれた。少し大げさかもしれないけれど本当にそう思っています。

自分の魂が心の底にある願いを諦めていなかったから、これからはピアノ以外のところでも少しずつ自分の内側にある声や叫びに耳を傾けて、自分の音を響かせて生きていきたいです。

純度100%の自分であること

考えるのをやめて感じる。

ピアノでも、ピアノ以外の仕事でも人間関係でも、何もかも。

例えば、「これが理想の上司です」っていう上司像をいくら演じようとして何をどう頑張っても、結局は自分なりの上司像しかできません。

つまり、唯一無二で純度100%の自分が一番価値がある。

「これは○○さんじゃないと」

となるから価値や影響力が生まれるのであって、

「誰がやっても同じですよ」「実はお手本にしてる人がいて」

ということであれば「じゃあ他の人に頼むわ」となってしまうだけです。

つまり「オリジナルで突き抜けていくこと」にこそ価値があるのだと思います。

そのためには「自分が感じる面白さって何だろう」「自分の中にある響きって何だろう」「自分の中にある純度って何だろう」といったようにとにかく自分の内側を深く深く掘り続けて、自分自身とつながるしかない。

その結果として何が起きるかはその時になってみないと分かりませんが、これをやっている限り、誰から批判されようが何を言われようが、きっと喜びしかない人生が待っているんだろうなと思います。

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お友達の誕生日に出張演奏をした時の様子 

ピアノであればこうしたあり方がありありとイメージできる。

だから、ピアノと同じことを他のところででもすればいいんだ。

自分にしか出せない音を出したい。

完璧であることと自分の価値はまったくの無関係。

人の賞賛と自分の価値も何にも関係がない。

これがピアノでは分かるのにピアノ以外のところでではまったくと言っていいほど分かりませんでした。

「能力があること」が価値なのではなく「自分の興味関心(好き・面白い)を深めること」こそが価値。

だからこれからは「何かができる自分」ではなく「自分の興味関心を探求する自分」をもっと大切にしていこう。

思えば今のITの仕事に就いた背景や本を出させてもらった経緯を考えてみると、それは決して「人から認められること(周りへポジティブな影響を与えること)」だけに突き動かされていたわけではありませんでした。

新しい概念や技術の登場にワクワクしたり、システムやサービスを作るプロセスが面白いと思う気持ちだったり、「こんなことができるなんてすごい!」という感動だったり。

いつの間にか「世の中をよくするためのツールとしてのIT」に捉われてしまっていましたが、元々のベースには自分の中の純粋な好きとか面白いという感情があったし、そういった自分の持っている情熱や自分の視点、ものの見方、考えたことが誰かの気づきやプラスになったらいいなと思っていました。

いつの間にか目が向かなくなってしまっていたけれど、そういった気持ちが昔も今も確かに自分の中にあり続けています。

自分にとっての「自由」の定義

夢だったり志だったり、ビジネス的に言えばクレドだったりミッションステートメントと呼ばれたりもしますが、数年前から僕にとってのそれは「自由で創造的な社会の創造に貢献する」というものになっています。

「自由」であり「創造的」であること。

この2つの言葉は自分にとってとても大切なものになっています。

僕が最初に大きな自由を感じたのは、学生時代にカリフォルニアへ1年留学したときです。

様々なバックグラウンドを持った人が集まる環境で、みんな良い意味で他人に興味を持っていないし、干渉もしない。それでいてひとり一人が持っている多様な考えやアイデアを自然と尊重する空間がとても居心地のいいものだったことを今でも強く覚えています。

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留学先のキャンパスの風景 

「自由」に関していえば、他にも僕のお気に入りのピアノ漫画『四月は君の嘘』の中にも「音楽の自由さ」について語っているシーンがあります。

「違うよ、音楽が自由なんだよ」(リンク先から2コマ目を閲覧できます)↑

思えば『のだめカンタービレ』や『ピアノの森』といった作品でも、自由に音楽・演奏を楽しんだり、音楽によって自由を得ていく描写にとても強く惹きつけられました。

僕がそれだけ強く「自由」に魅力を感じるということは、裏を返すと過去にそれだけ「自由じゃない経験」をしているからに他ありません。(なぜなら人は自分に無いもの・足りないものを求めるのであって、すでにあるもの・満ち足りているものを求めることはしないものです)

詳しくは割愛しますが、閉鎖的なコミュニティで生まれ育ち、自分の発言を穴孫無しに否定されて聞く耳を一切持ってもらえなかった経験やスクールカーストから転落しないように周りの顔色をうかがっていた学校生活、部活では意味の分からないルールを押し付けられて無条件でそれに従わなければいけなかったり。

「自由」というと少し漠然としていて抽象的なところがありますが、些細なことから大きなことまで、そういった数々の原体験を振り返ってみて僕が求めている自由とは「既存・他人の価値観に捉われずに、自分の興味関心を探求し、表現すること」なんだと気付くことができました。

この自由への願いを実現することこそ今後取り組んでいくべきことだし、それが自分にしか出せない音を響かせることにつながっていくのだと感じています。

おわりに ~きらきらしていることは重要でも必要でもない~

自分の作り出した思い込みの呪縛から自力で抜け出すというのはなかなか簡単なことではありませんでしたが、それでもこのような人の心や悩みの構造を分析する手法があること、分析した結果見つかった自分の思い込みを紐解くためのアプローチが存在しているというのはとても希望のあることだと思います。

「~~することが重要」とか「~~しなければいけない」とか「こうしたら~~できる」とか。

世の中には様々な価値観が存在していて、それらの1つ1つは一見正しいように見えても実はそんなことなかったりするものです。

何かを達成したり、きらきらと輝くことだけがすべてじゃないし、かといって自分の理想を諦める必要もなくて。

僕にとって「頑張らなければいけない」ことがそうであったように、自分に合わないものは遠ざけたり手放したりしながら、悩んだり、苦しんだり、笑ったり、喜んだり。

そういった「頑張らない自分」としての生き方はまだ少しずつ始まったばかりですが、これから更なるシンカ(進化・深化)を行う中で生まれていくキセキ(軌跡・奇跡)をとても楽しみにしています。

祖父が生前に残してくれた書画


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