佐宮圭

ライター歴およそ30年で、サイエンスとビジネスが得意分野。作家としては、小説とノンフィ…

佐宮圭

ライター歴およそ30年で、サイエンスとビジネスが得意分野。作家としては、小説とノンフィクションの本を書いている。数年前から、新人ライターさんに相談される機会が増え、体験談を交えて話したら意外と喜んでもらえたので、個人的な意見や仕事の思い出などをnoteに書いてみることにした。

最近の記事

第11回(最終回) 新たな物語の始まり

 こうして、私が生まれて初めて出版する本の物語は幕を下ろす……はずでした。  しかし、物語はさらに続きます。  『さわり』は朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞の大手4誌の書評に取り上げられ、それぞれに好評を得ます。  それもあってか、1度ではありますが、無事、版も重ね、本を読んだ取材協力者の方々からも感謝されました。  ただ1つだけ、叶わない願いがありました。  それは、日本が誇る伝統芸能「琵琶」の魅力をより多くの読者に伝えて、若い琵琶奏者を少しでも増やしたいとい

    • 第10回 伝えたい想いが変わる

       原稿の締め切りと出版時期の延期理由として、新たに重要な情報を入手できたことを話すと、担当編集者は「納得するまで書き直して、いい作品にしてください」と発売を延期してくれました。  原稿を書き直すにあたり、「鶴田櫻玉の琵琶活動」と「水藤錦穣の人生」という2つの穴を埋めるのと並行して、私はもう1つ、作品の質の向上に取り組みました。  それは「作品から音(音楽)が聞こえてこない」という課題のクリアでした。  小学館ノンフィクション大賞の選者の一人である二宮清純氏に厳しく批評され

      • 第9回 受賞で開いた謎解明の突破口

         翌年3月に本を出版するには、初稿(デザイナーに入稿する原稿)を年内に仕上げる必要があります。  授賞式の際、取材協力者には「書き直して、もっとよい本にします」と約束しました。しかし、10年かけて、役立つ資料や証言者は全て探し尽くしました。もう何も新しい記録や情報が出てくる可能性はありません。できることと言えば、文章を整え磨くことくらい。その程度の作業なら、年末までの3か月余りで間に合うと考えて、私は「3月出版」を了承しました。  受賞作『鶴田錦史伝』が酷評された理由は「

        • 第8回 凍りついた受賞会場

           授賞式の執り行われる東京會舘の式典会場に入る際、招待客には、受付で、表紙に『平成22年8月30日 第17回小学館ノンフィクション大賞』と書かれた小冊子が配られます。  内容は、受賞者2人の「受賞の言葉」と6人の選者による選評です。  佐宮圭の『鶴田錦史伝』に対する選評の大半は「本当に受賞したの?」と疑いたくなるほどの酷評でした。  桐野夏生氏には、都合の悪いところが省かれているのでは?と疑われ、椎名誠氏には、解明されていない謎の部分があまりに多すぎると指摘されました。言

        第11回(最終回) 新たな物語の始まり

          第7回 なぜ「佐宮圭」になったのか

           友人からのアドバイスを受けて調べてみると、当時、未発表原稿で応募するノンフィクションの賞が主に2つありました。  それぞれの過去の受賞作をチェックすると、鶴田錦史の伝記には、集英社の「開高健ノンフィクション賞」よりも小学館の「小学館ノンフィクション大賞」の方が合っている気がしました。  早速、最終的な書き直しに取り組み、完成したのは2010年3月末日の応募締切(当日消印有効)前日でした。  私の本名の姓はちょっと珍しいものだったので、小さい頃から名前で呼ばれ、ニックネー

          第7回 なぜ「佐宮圭」になったのか

          装丁(表紙)が届きました!

           8月7日(水)発売の拙著『男装の天才琵琶師 鶴田錦史の生涯』(朝日新聞出版)の装丁(表紙)が届きました。  左は二十歳前後の雅号「鶴田櫻玉(本名:鶴田キクヱ)」だった頃のブロマイド(サイン入り)、右は晩年の雅号も本名も「鶴田錦史」となってのちの写真です。

          装丁(表紙)が届きました!

          第6回 ショックで髪が抜け落ちる

           私は書き上げたばかりの鶴田錦史の伝記の原稿を、この仕事の依頼主である小さな出版社の副社長兼編集長のもとに送りました。  彼女はとても喜んでくれました。私の5年半に及ぶ苦労と努力に対するねぎらいの言葉のあと、「では拝読して、お返事しますね」と言いました。  しかし、いつまで経っても返事はもらえません。  彼女に呼び出されたのは、半年後の2006年10月。当時、ライター仕事が多忙を極め、5日間、ほとんど寝ていない状態でしたが、私は喜び勇んで彼女の出版社に出向きました。

          第6回 ショックで髪が抜け落ちる

          第5回 謎を残したまま

           何度かの呼び出し音のあと、電話がつながりました。 「はい、水藤でございます」  私はまた頭が真っ白になりました。  その言葉と話し方から察するに、声の主は、夫を亡くしたばかりの水藤桜子さんに違いありませんでした。  息子さんが出るものとばかり思っていた私は、しどろもどろになりながら、 「先ほど、ご子息にお話しいただきました者です」  水藤桜子さんは、 「あぁ、いつか水藤が話していた方ですね」  胸が詰まって「はい」とすぐにはお返事できませんでした。  あの勉強会のあと、

          第5回 謎を残したまま

          第4回 ライターとして一生後悔すること

           勉強会の帰路、思わずスキップしてしまいそうになるほど、私の心は弾んでいました。  水藤五朗さんの話を聞くことができれば、鶴田櫻玉の演奏活動や水藤錦穣の人生、錦琵琶、大正以降の琵琶界について、貴重な情報を入手できるのは明らか。しかも、それらを本に書き記して、いまの若い世代に正しく伝えることが、水藤五朗さんの望みでもあったのです。  聴きたいことは山ほどありました。しかし、勉強会の直後から、私はライターとしての日々の仕事に忙殺されます。  水藤五朗さんの「いつでもいらっしゃ

          第4回 ライターとして一生後悔すること

          第3回 もう1つの謎を解く好機が到来

           菊枝(鶴田錦史の本名)は昭和4年、群馬から東京へと活動拠点を移します。  小島美子の『嵐を生きる』のなかで、鶴田錦史は《群馬に移った頃から、私はもう一度東京に戻りたいと思っていたので、十九歳の四月に上京しました。》と語っています。彼女が話すときの「十九歳」は数え歳なので、現在の表現なら「17歳」です。  この発言に続く形で、彼女は次のように言います。 《私の人生のおもしろいのは、ここまでなんですよ。》  『嵐を生きる』は何度も読み返しましたが、迂闊にも、この一言にはあ

          第3回 もう1つの謎を解く好機が到来

          第2回 封印された過去の謎が解けた

           取材は資料集めから始まります。  ネットや国会図書館、邦楽専門店や昭和史の関連施設などで手当たり次第に資料を集めて、鶴田錦史に関するわずかな情報も逃さず抄出して、整理しました。  鶴田錦史が生まれたときに付けられた本名は「鶴田キクエ」で「菊枝」と表記しました。琵琶の演奏者は「本名」ではなく、琵琶師の芸名である「雅号」を名乗ります。鶴田錦史の「錦史」は50歳で琵琶界にカムバックしたときに付けられた雅号で、のちに彼女は戸籍も「キクエ」から「錦史」に変えてしまいます。  鶴田錦

          第2回 封印された過去の謎が解けた

          第1回 本を出すまでに11年かかった4つの理由

           本を出すのはたいへんです。  ある程度の売上げが見込める実用書や著名人の自伝、出版社側がノーリスクで出せる自費出版系などは別として、無名の人間が書きたくて書いた本を出版できる確率はかなり低いと言えます。  たとえば私の場合、ある人物の伝記の執筆を小さな出版社から依頼されたのは2000年の冬で、実際に『さわり』として小学館から出版されたのは2011年11月ですから、11年もかかってしまいました。  そして、『さわり』の全面改訂版『男装の天才琵琶師 鶴田錦史の生涯』(朝日新聞出

          第1回 本を出すまでに11年かかった4つの理由

          7月8日(月)からエッセイの連載がスタート!

           第17回小学館ノンフィクション大賞の優秀賞受賞作品として2011年に発行された天才琵琶師・鶴田錦史の伝記『さわり』に関するエッセイ(全11話)を7月8日(月)から毎週、月、水、金のペースでリリースします。  鶴田錦史の伝記執筆を依頼された2000年の取材開始にもかかわらず、どうして『さわり』は出版までに11年もかかってしまったのか。実際に本が出版されるまでには、どんなプロセスがあり、どんなことに気をつけなければならないのか。  「本を出したい!」と思う方のヒントになり、少し

          7月8日(月)からエッセイの連載がスタート!

          カーペンターズがくれた“我慢のご褒美”  後編

          「カレンと一緒に日本に来れなくて寂しくないですか」  もしかしたら「Yes」か「No」だけでも答えてくれるかもしれない――そんな一縷の望みに賭けるしかなかった。  もしダメでも、カレンについての質問をぶつけた瞬間、リチャードがどんな表情を浮かべて、どんな様子で席を立ち、どんな雰囲気でその場を去るのか、脳裏に焼き付けて克明にレポートすることで記事をしめるしかない――そう思っていた。  私はゴクリと生唾を飲み、覚悟を決めて、リチャードの目を真っすぐに見つめる。  通訳者に遮断

          カーペンターズがくれた“我慢のご褒美”  後編

          カーペンターズがくれた“我慢のご褒美”  中編

          「それじゃ意味ないだろ? リチャードからカレンについてのコメントを取ってきてくれ。もし取れなかったら、ほかのグラビアに差し替えるから」  カレンについてリチャード自身にしゃべってもらうことなんて、できるはずなかった。  だからといって、貴重な日本滞在中のスケジュールのなかから3時間近くももらっておきながら記事にしないなんて、そんなこともできるはずなかった。  ついさっきまで幸運にニヤついていた私の顔はすっかり青ざめ強張っていた。  取材当日、集合場所で簡単な挨拶をすませた

          カーペンターズがくれた“我慢のご褒美”  中編

          カーペンターズがくれた“我慢のご褒美”  前編

           取材には相手との「我慢くらべ」のような一面がある。  こちらの「聞きたいこと」が相手の「話したくないこと」なら尚更だ。  そんなとき、取材する側がギリギリまで我慢すれば取材される側もこちらの誠意に応えてくれる。  「カーペンターズ」のリチャード・カーペンターにインタビューしたときがそうだった。 「来日するリチャード・カーペンターをグラビア・ページで取り上げるから、取材しないか」  そう編集者から声をかけられたとき、私は小躍りするほど喜んだ。  1970年にリリースされた「

          カーペンターズがくれた“我慢のご褒美”  前編