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カーペンターズがくれた“我慢のご褒美”  前編

 取材には相手との「我慢くらべ」のような一面がある。
 こちらの「聞きたいこと」が相手の「話したくないこと」なら尚更だ。
 そんなとき、取材する側がギリギリまで我慢すれば取材される側もこちらの誠意に応えてくれる。
 「カーペンターズ」のリチャード・カーペンターにインタビューしたときがそうだった。

「来日するリチャード・カーペンターをグラビア・ページで取り上げるから、取材しないか」
 そう編集者から声をかけられたとき、私は小躍りするほど喜んだ。
 1970年にリリースされた「遙かなる影(クロス・トゥ・ユー)」から始まり、名曲の数々を世に送り出したカーペンターズは、まさしく世界的スーパースターだった。1983年にボーカル担当の妹カレン・カーペンターが突然死してしまったことから、カーペンターズとしての活動は終わったが、人気は衰えず、2021年の今でも彼らの曲をラジオやテレビで耳にすることは多い。
 私も幼い頃から家にあったアルバムを何度も聴いているうちファンになった。
 だから、モノクロ写真が1枚と650字程度のグラビア記事の取材のためにリチャード・カーペンターと3時間近く一緒にいて話を聞ける機会が与えられるなんてライター冥利に尽きた。

 莫大な資産を持ち、生活のために働く必要がないのに、49歳のリチャードがわざわざ来日したのには理由があった。
 日本では、1995年冬、いしだ壱成、香取慎吾、反町隆史、桜井幸子、浜崎あゆみ出演の野島伸司脚本ドラマ『未成年』が放送され、人気を博した。その番組でオープニング曲「トップ・オブ・ザ・ワールド」のほか、エンディング曲や挿入歌として使われた『青春の輝き』『デスペラード(邦題:愛は虹色)』『イエスタデイ・ワンス・モア』などの曲が若者の間でブームとなり、同年11月にリリースされたカーペンターズのベストアルバムはミリオンセラーとなった。
 そんな日本の若いファンへの感謝を伝えるため、1996年春、リチャードは来日した。

「ただ、1つ、条件が出されている」と編集者は言った。
「カーペンターズの話はいいけれど、カレンの話については一切なし。もしカレン個人に関する質問が出たら、インタビューは中断、取材を拒否するって」

 やっぱりな、と思った。カレンの拒食症による突然死には憶測が飛び交い、一大スキャンダルとなった。なかにはカレンの死の責任の一端をリチャードに負わせようとする者もいた。そんな状況に心底疲れ果て、リチャードがカレンの話をしなくなったことは日本でも知られていた。
「カレンについて質問したら取材拒否」というのは、決して大袈裟な話ではなかった。
 私の取材から数日後、リチャードは日本を離れる直前に記者会見を開いた。偶然、その会見をテレビで見ていると、詰めかけた多くの記者たちとしばらく質疑応答が行われたあと、しびれを切らした一人の記者が「カレンさんは……」とカレン・カーペンターについての質問を始めた。
 すると、まだ記者が質問途中にもかかわらず、関係者がひな壇に歩み寄り会見の終了を告げると、リチャードを会見場の外に連れ出してしまった。

 カレンについて質問できないのは残念だったが、それでも「カーペンターズの話がリチャード本人から聞けるなら」と喜んでいた私に、編集者が「こっちにも1つ、条件がある」と告げた。
 私が「こっちの条件ってなんですか」と尋ねると、編集長はさらりと言った。

「カレンの話を必ず入れてくれ」

 耳を疑った。私はオウム返しに尋ねた。
「カレンの話を必ず入れてくれ?」
「そう、カレン・カーペンターについてインタビューしてきてくれ」
「でも、カレンの話をしたら、取材は即終了なんですよね」
「そうだよ」
「なのに、カレンについてリチャードにインタビューって……」
「読者もカレンの話が読みたいだろ」
「じゃあ、地の文でカレンの説明をして、そこに関係ありそうなリチャードの発言を組み合わせて……」
 編集者は呆れたような顔で言った。

「それじゃ意味ないだろ? リチャードからカレンについてのコメントを取ってきてくれ。もし取れなかったら、ほかのグラビアに差し替えるから」

(敬称略)

→  「カーペンターズがくれた“我慢のご褒美” 中編」につづく

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