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第9回 受賞で開いた謎解明の突破口
翌年3月に本を出版するには、初稿(デザイナーに入稿する原稿)を年内に仕上げる必要があります。
授賞式の際、取材協力者には「書き直して、もっとよい本にします」と約束しました。しかし、10年かけて、役立つ資料や証言者は全て探し尽くしました。もう何も新しい記録や情報が出てくる可能性はありません。できることと言えば、文章を整え磨くことくらい。その程度の作業なら、年末までの3か月余りで間に合うと考えて、私は「3月出版」を了承しました。
受賞作『鶴田錦史伝』が酷評された理由は「大きな謎を解かずに放置したこと」にあります。でも、これ以上、「鶴田櫻玉」と「水藤錦穣」の資料も証言者も出てこないのですから、仕方ありませんでした。
しかし、予想もしなかったことが起こります。
小学館ノンフィクション大賞の優秀賞の受賞が与えてくれたのは、100万円と出版のチャンスだけではありませんでした。
賞のおかげで、残った謎の解明につながる2つの幸運が転がり込んだのです。
1つ目の幸運は、授賞式からしばらく経ったときのこと。個人的に琵琶史を研究する高齢の琵琶奏者から連絡があり、自宅に招かれました。彼は私の前にダンボール箱を2つ置くと、言いました。
「これらは国会図書館にもない、貴重な資料です」
箱の中には、見るからに古い紙の資料が何百枚も入っています。
「私自身が集めたものに加えて、ある研究家の方が個人宅を一軒一軒訪ねて歩いて、長い歳月をかけて集めた資料を私が譲り受けたものです」
大正から昭和にかけて発行されたガリ板刷りの『琵琶新聞』(琵琶新聞社)や『水聲』(琵琶新聞社)、戦後に発行された『琵道』(琵道社)や『琵琶春秋』(琵琶春秋社)など、琵琶を嗜む者の間でのみ流通した媒体の現物やコピーでした。このような貴重な資料は、確かに国会図書館で探しても出てきません。
「これらの資料には、大正から昭和の戦前、戦中、戦後の琵琶活動の内容がつぶさに記録されています。重複するものは現物をお渡しします。一部しかないものはコピーをお取りいただいて結構です。私はもう高齢なので、これらの貴重な資料を活かすことができるか、自信がありませんから、あなたが上梓される鶴田錦史先生の本に役立ててください」
家に帰り、すべてにざっと目を通した私は興奮し、歓喜しました。それらの資料には「水藤錦穣」と弟子の「鶴田櫻玉」の琵琶の演奏活動についての情報がふんだんに記録されていました。
鶴田櫻玉の謎は解けました。
しかし、水藤錦穣の謎は解けないままでした。
演奏家としての情報は十分でしたが、当然のことながら、それらの資料には「ひとりの女性そして母としての水藤錦穣」についての記録や情報は一切ありませんでした。
突然かかって来た1本の電話が、その謎を解く突破口を開きます。それがもう1つの幸運でした。
こちらも授賞式からしばらく経ったときのことです。
「佐宮さんですか」
知らない男性の声でした。
「はい」と答えると、男性は、小学館の第17回ノンフィクション大賞の優秀賞を『鶴田錦史伝』が受賞し、本として出版予定だと知った。それについて、どうしても言いたいことがあったので、琵琶関係者からあなたの連絡先を聞いて電話したと私に告げると、怒りを滲ませた声で言ました。
「鶴田錦史を褒め讃える本なんでしょうけれど、邦楽界で実(まこと)しやかに言われている『鶴田錦史が五弦五柱の琵琶を発明した』という話は真っ赤な嘘だということを、あなたはご存知なんですか!」
私は穏やかな口調で答えました。
「はい、知っています。五弦五柱の琵琶を発明したのは、錦琵琶の宗家、水藤錦穣ですから」
男性は一瞬の沈黙のあと、
「その話も書いたのですか?」
「はい、若き日の水藤錦穣が五弦五柱を発明したときの経緯についても、詳しく書いています」
男は声のトーンを少し下げて尋ねた。
「では、鶴田錦史が『櫻玉』という雅号で演奏していたことは?」
「はい、水藤錦穣の弟子になってから『錦史』となるまでの期間、『鶴田櫻玉』として活動したのも知っています」
「つまり、鶴田錦史がかつて水藤錦穣の弟子だったことも書いたのですか?」
男性はかなり驚いていました。
私は長年の取材を通して知っていました。「五弦五柱の発明者は水藤錦穣であり、鶴田錦史ではない」と「かつて鶴田錦史は水藤錦穣の弟子だった」という2つの事実を公に発言することは、鶴田錦史の死後から当時に至るまで続く琵琶界のタブーでした。
それこそが「このままでは誤った琵琶史が残ってしまう」と生前の水藤吾朗さんが懸念していたことでした。
取材記者には業界のタブーなど関係ありません。事実を伝えるのが仕事なので、迷うことなく、それら2つを私の知るかぎり詳細かつ具体的に書いていました。
私は男性に告げました。
「はい、書きました。それらの事実を明らかにしたからと言って、鶴田錦史の偉業と名誉が損なわれることにはなりませんから」
男性はしばらくの沈黙のあと、柔らかな口調で、
「私の母は錦琵琶の藤波櫻華です。水藤錦穣先生のご自宅に住み込みで弟子入りしていたこともあるのですが、話を聞かれますか?」
携帯を握りしめたまま、思わず身を乗り出して、
「今日……はもう夜も遅いですから、明日、ご都合が悪ければ明後日でもいいですので、できるかぎり早くお話を伺わせてください!」
私の声は震えていました。
先方から指定された数日後、信頼してもらえた私は、齢八十を越える藤波櫻華(「櫻華」は錦琵琶の雅号)さんと二人きりで、ご自宅の近くの喫茶店でお会いしました。
櫻華さんはご高齢でいらしたので、私はインタビューが1時間経つごとに「お疲れではありませんか。もう終わりにして、後日、改めてお会いいただけますか」と気遣いました。そのたび、櫻華さんは「大丈夫ですよ。私はとても元気ですから」と言って、話を続けられました。
結局、4時間余り、お話しを伺うことができました。
櫻華さんは、水藤錦穣と小学生の水藤五郎(本名)さんの3人での生活を6年半ほど過ごされました。夜は3人で雑魚寝して、五郎さんが就寝後は毎夜、それまでの「中村冨美(水藤枝水の養女になる前の水藤錦穣の本名)」および「水藤冨美」の半生を問わず語りに聞かせてもらったそうです。
そんな櫻華さんの貴重な証言によって、私は「ひとりの女性そして母としての水藤錦穣」を描けるようになりました。
「鶴田櫻玉の琵琶活動」と「水藤錦穣の人生」という2つの謎が解ければ、作品の完成度を著しく損なっていた2つの大きな穴が埋められます。そうなれば、酷評された作品の欠点や弱点も改善できます。
私は小学館の担当編集者に電話しました。
「原稿を書き直したいので、3月の出版を延期してもらえませんか」
これが「本が出るまで11年もかかった主な理由」の4つ目の「著名な作家陣からの酷評を乗り越えたかったから」という話の顛末です。
第10回につづく