第6回 ショックで髪が抜け落ちる
私は書き上げたばかりの鶴田錦史の伝記の原稿を、この仕事の依頼主である小さな出版社の副社長兼編集長のもとに送りました。
彼女はとても喜んでくれました。私の5年半に及ぶ苦労と努力に対するねぎらいの言葉のあと、「では拝読して、お返事しますね」と言いました。
しかし、いつまで経っても返事はもらえません。
彼女に呼び出されたのは、半年後の2006年10月。当時、ライター仕事が多忙を極め、5日間、ほとんど寝ていない状態でしたが、私は喜び勇んで彼女の出版社に出向きました。
彼女から差し出された原稿のプリントアウトの束を受け取り、最初からペラペラめくりながら確認し始めた私はびっくりしました。
赤字がどこにも入っていません。
ある程度の完成度の高さは担保したつもりでしたが、そこまで完璧な原稿だとは思っていませんでした。
副社長兼編集長は驚く私に微笑みながら、
「クラシックの現代音楽、琵琶、大正期の芸能や戦後史などを研究する人にとっては、非常に貴重な本になると思います」
そして笑みを消し、
「でも、最初に約束しましたよね? 普段は本をあまり読まないような人でも、楽しく読める本にしてくださいって。この原稿はエンターテインメントとして、気軽に読めるものにはなっていません。最初から書き直してください」
打ちひしがれて自宅に戻り、100時間近くぶりでまともに寝ようとする私の背中をさすっていた妻が、「うわっ!」と声を上げました。
「どうした?」
「昨日はなかったのに、後頭部に大きなハゲができてる!」
それからは、1円ハゲ、10円ハゲ、100円ハゲ、500円ハゲと円形の脱毛部分がどんどん増殖し、数日後には半分以上の毛が抜けて、やたらと数の多いトゲの束が散りばめられたサボテンか、過激というより不憫にしか見えないパンクのヘアスタイルみたいになりました。
皮膚科の医者は言いました。
「過労とストレスが原因です。ストレスの原因を取り除いて、ゆっくり休めば、また生えて来ると思いますよ」
ライターとしては経済系の硬い媒体を主戦場としていたので、過激な髪型はNGです。編集者に相談すると「スキンヘッドにすればいい。取材対象者の印象に残りやすいから、返って武器になるかも」と助言されました。
早速、頭を丸めました。しかし、予想外の問題が発生しました。
男性ならわかると思いますが、髭を剃ると生えていた部分はうっすらと青くなります。私のスキンヘッドには、大小さまざまな円形脱毛症が点在する部分は薄桃色、まだ毛が残っていた部分は青色と、複雑怪奇な模様が浮かび上がりました。
友人たちからは「地球儀みたいで、派手な頭だな」とからかわれました。
ぼちぼちと仕事を続けながら、心と頭皮が元気になるのを待ち、髪が生えそろい始めた頃、私は鶴田錦史の伝記の仕事を再開しました。
編集者に読んでもらった原稿は、書き手が語る一人称の文体で書かれていました。私は構成を大きく変えて、文体も三人称にしました。すると幾分、小説っぽい雰囲気で読めるようになりました。
突き返されてから1年半後の2008年春、私は意気揚々と新たに書き直した原稿を副社長兼編集長に送りました。
今度は前回より早い3か月後の2008年6月、返事のメールがケイタイに届きました。
私はドキドキしながら、ケイタイの受信ボックスにある彼女からのメールを開きました。
「仕事が忙しすぎて、体調を崩しました。このまま東京にいたら休めず、死ぬだろうから、すぐ海外に出て休養しなさいと父に命じられたので、何もかも置いて、いまオーストラリアにいます」
はぁ?―――私は思わず声に出していました。
「大丈夫、心配しないでください。あなたの原稿だけはちゃんと持って来たから。読んだらお返事しますね!」
それが、彼女からの最後のメッセージになりました。
待てど暮らせど、なんの返事もありません。彼女のメールから1か月後、「その後、どうですか?」と送ったメールには「送り先不明」の通知が返って来ました。数週間後、彼女の小さな出版社の事務所を訪れてみると、別の会社になっていました。
これが「本が出るまで11年もかかった主な理由」の2つ目の「伝記執筆の依頼主が失踪したから」というお話です。
『ノベンバーステップス』の作曲家・武満徹の妻の武満浅香さんや、同曲の初演のソリストだった尺八奏者の横山勝也さんには「あの曲の素晴らしさを本に書いて後世に伝えたい」とお願いして、お話を伺いました。のちに人間国宝となる琵琶製作者の四代目・石田不識さんや、同じくのちに人間国宝となる筑前琵琶の山崎旭翠さんには「鶴田錦史の伝記を通して、琵琶の魅力を若い世代にも伝えたい」と伝えて、インタビューさせてもらいました。
ほかにも数えきれないほどの人たちに「小さな出版社からですが、書籍として出ますから」と説明して、取材に協力してもらいました。
本が出なくなれば、それらの人たちの厚意に報いるすべを失って、私はただの嘘つきになってしまいます。
2009年2月、私は失踪した副社長兼編集長の親族でもある出版社の社長になんとか連絡を取って、事情を伝えると、「ほかの出版社から出してもらえるなら、出してもらってください」という旨の返事が来ました。
私は、ライターとして仕事を受けていた大手出版社5社の編集者に連絡して、原稿を読んでもらいました。
しかし、4社からは「無名な著者が書いた『鶴田錦史』という無名の人物の伝記を出せるほどの余裕はない」という理由で断られました。
某大手出版社では編集会議の最終段階まで残りました。しかし、編集長の「この作品は内容が面白いので大化けするかもしれないけれど、無名な著者が書いた無名の人物の伝記は売れないから」という判断で却下されました。
これが「本が出るまで11年もかかった主な理由」の3つ目の「伝記の主人公と私が有名ではなかったから」という話です。
10年近くの努力が水の泡になろうとしていました。
そんなとき、事情を知った友人が言いました。
「そんなに本にしたいのなら、ノンフィクションの賞に出してみたら?」
第7回につづく