第3回 もう1つの謎を解く好機が到来
菊枝(鶴田錦史の本名)は昭和4年、群馬から東京へと活動拠点を移します。
小島美子の『嵐を生きる』のなかで、鶴田錦史は《群馬に移った頃から、私はもう一度東京に戻りたいと思っていたので、十九歳の四月に上京しました。》と語っています。彼女が話すときの「十九歳」は数え歳なので、現在の表現なら「17歳」です。
この発言に続く形で、彼女は次のように言います。
《私の人生のおもしろいのは、ここまでなんですよ。》
『嵐を生きる』は何度も読み返しましたが、迂闊にも、この一言にはあまり注意を払いませんでした。
しかし実際には、《私の人生のおもしろいのは、ここまで》だったからこそ、鶴田錦史の琵琶師としての8年間の経歴がブラックボックス化したのです。なのに、私は何年も、その発言の真意に気づけませんでした。
この言葉の直後の《その頃は不景気になっていましたし、今度は高崎の時のようにはいきませんでしたね。》という言葉に続けて語られる彼女の金銭的な苦労や、ごくわずかな言葉で片づけられてしまう結婚の破綻、長女を養女に出したこと、そして、生活のために水商売を始めたことなどを読んで、私は〈こんなんじゃ、「おもしろいのは、ここまで」って言いたくもなるよ〉などと早合点してしまったのです。
たとえ「おもしろく」なくても、17歳の時点から水商売を始める昭和12年の26歳までは、演奏家として脂の乗り切った時期のはずなので、いくらなんでも情報量が少なすぎるとは思いました。しかし、私は〈昭和38年にカムバックするまで、琵琶の演奏活動は休止したわけだから、商売の話以外に語るべきことがなかったのかもしれない〉と考えて、自分自身を無理やり納得させてしまいます。ライターとしてはあるまじき浅はかさでした。
真相を知るきっかけは、新たに入手した本のなかにありました。
『都錦穂 琵琶一筋』(平成十一年、創文発行)は、錦琵琶の都派家元の都錦穂の人生を弟子の増子穂稜が記した本です。このなかに、唐突に「鶴田錦史」の名前が登場します。
〈NHKで専属の琵琶演奏家を募集していることを新聞で知った。(※中略)選に入ったのは水藤錦穣門下の鶴田櫻玉(後の鶴田錦史)、水谷櫻舟と埼玉県の人であった。〉
「水藤錦穣門下の鶴田櫻玉(後の鶴田錦史)」って……どういうこと?
「水藤錦穣」の名前は知っていました。美少女琵琶師として絶大な人気を博した彼女は、若くして錦琵琶を立ち上げ、初代宗家(一門のトップ)となります。そんな水藤錦穣と鶴田錦史が昭和の琵琶界でライバル関係にあったことも、資料や証言から学んでいました。
しかし、『ノベンバー・ステップス』の成功以降に書かれた膨大な記事や資料のどこをどう探しても、『櫻玉』という雅号(琵琶師の芸名)も、かつて鶴田が水藤錦穣の弟子だったという事実も出て来なかったし、鶴田錦史のお弟子さんたちや琵琶関係者、邦楽研究家などからも聞いたことがありません。
2005年4月、私は都錦穂さんに電話をかけました。
同居する娘さんに事情を説明すると、錦穂さんが電話に出てくださり、50年以上も前の思い出を話してくださいました。
「鶴田さんってね、姿も何も変えちゃって、男になっちゃって。私には『男になろうと思ってる』って。で、こっちに来るときは女になって来た方がいいですよって言ったら、『私は好きでこうやってるんだから、大丈夫だよ』って……」
ご家族から「今日はあまり体調が優れないようです」と聞かされていたので、短いやりとりだけ。取材協力への感謝を述べ、電話を切ろうとしたとき、娘さんが教えてくれました。
「来月末、琵琶楽協会主催の琵琶の勉強会が開かれます。その会では、水藤錦穣先生のご子息で錦琵琶宗家の水藤五朗先生も講義されます。水藤錦穣先生のお弟子の鶴田櫻玉さんについてお知りになりたいのでしたら、その勉強会に行かれたらどうですか」
2005年5月28日、琵琶楽協会主催で開かれた勉強会は、琵琶楽協会理事長で正派宗家の須田誠舟さんが司会を務め、薩摩琵琶正派の島津正さん、筑前琵琶の藤巻旭鴻さん、薩摩琵琶錦心流の輝錦統さん、錦琵琶宗家の水藤五朗さんが講義を行いました。「琵琶の研究家としては実名を名乗る」という島津さん以外は雅号です。島津さん、藤巻さん、輝さんの講義によって、それぞれの琵琶の宗派の歴史が学べました。
水藤五朗さんは、母親である水藤錦穣が錦琵琶をどのようにして立ち上げ、発展させたかについて講義されました。
「水藤錦穣」については、鶴田錦史の師だったとは知らないときから、昭和の琵琶界を牽引する二大スターの一人として調べていました。しかし、鶴田錦史と同様、水藤錦穣に関する資料もほとんど残されていません。
水藤五朗さんとは四年前に名刺交換と簡単なご挨拶をしていましたが、お話を伺うまでには至りませんでした。水藤五朗さんに取材できれば、多くの謎が一気に解明できるはずです。
勉強会の終了後、私は水藤五朗さんに歩み寄り、「執筆中の鶴田錦史の伝記本によって若い世代にも琵琶の魅力を伝えたい」「その本のなかで水藤錦穣の偉業についても紹介したい」という想いを熱弁しました。
話を聞き終わると、水藤五朗さんは柔らかな笑みを浮かべて、
「当時の琵琶界の状況をご存知の方はかなりの高齢で、亡くなられた方も少なくありません。いま、きちんとした形で記録を残さなければ、大切なことも曖昧になり、忘れ去られてしまうことを危惧しています。これからはどんどん、こういう機会を持とうと考えていたところですので、私の知っていることでよろしければ、喜んでお話ししますよ」
「いつ取材させていただけますか」
「べつに忙しくないわけじゃありませんが、とても大事なことですから、いつでもいらっしゃい」
取材したいと思ったひとから「いつでも」と言われら、何があってもすぐ行くべきです。
そうしないと、私のように一生後悔することになります。
第4回につづく