『七十二候』腐草為蛍‥くされたるくさほたるとなる
『腐草為蛍‥くされたるくさほたるとなる』
6月11日から15日頃
昔、蛍は暑さに蒸れて腐った草や竹から生まれ変わるものだと信じられていたそうです。
なんと幻想的でファンタジックでしょう。
蛍の別名に「朽草」とあり
朽草の中から次々と空へ舞う蛍の姿を見て
昔の人々はそう発想したようです。
そんな物語の中のような想像力は
今のように決して便利ではなかった時代に
培われた感性豊かな発想で現代ではなかなか生まれないものかもしれませんね。
水辺の草の中から緩やかに光を放ち
ふわりふわり‥。
優しい光は人々の心にスッと入り
そして寄り添い‥。
短い生命を持って安らぎを与えてくれます。
光っては消え‥光っては消え‥。
そんな様子をただ静かに見ているだけで
幻想的な世界へと導き心を癒してくれる‥。
蛍は儚い中にそんな力を
宿し生きているのです。
蛍といえば
万葉集、平家物語など多くの書物に
登場するのですが
今回は和泉式部の和歌をひとつ。
【現代語訳】
あなたが恋しくて思い悩んでいると
沢に飛んでいる蛍も自分の身体から
彷徨い出てきた魂なんじゃないかと思うの
夜に空へと光る蛍の乱舞を
あっ自分の魂だ‥と。
身体から出て浮遊しているのだと‥。
そう思えるほどにその恋は苦しく
切ないものだったのでしょう。
魂が身体から離れることは死に値すると
言われていた当時‥。
時が過ぎれば儚く消えてしまう
蛍の生命に自分を重ね
どれほどまでに辛かったのだろうかと
和泉式部の心を想像するのです。
通い婚だった当時
日に日に戻らぬようになった夫へ向け
詠んだ歌だと言われているのですが
そんな風に‥
心が離れてしまっていることを
知りながら、ただ帰りを待ち侘び
どれほどまでにさみしかったことでしょう。
離れて行く気持ちを察するほどに
つらいことはありません。
ここに確かにあった心が
いつの間にか遠く‥遠く‥。
浮かび上がる蛍の光は静かで‥
どこか物悲しく切なさを秘めているように
わたしには感じるのです。
蛍が光を発し始めるこの時期‥。
そんな和歌を浮かべながら
ちょっぴりセンチメンタルな気持ちで
蛍を眺めるのもいいかもしれませんね。
さて、前回の記事を書いていた時、雨が降っていたのでその後すぐにでも梅雨入りするかと思っていたのですが‥
わたしの住む鳥取県がある中国地方よりも
先に関東甲信越が梅雨入りしました。
それはなんと17年ぶりとのこと。
そんな番狂わせのような出来事は
神様のイタズラのような気がして
わたしにはちょっぴり微笑ましくも思えたりするのです。
今日(6/10)‥。九州南部北部とともに
梅雨入りしたと見られるようです。
こちらの梅雨入りもそろそろでしょうか。
わたしが継続していることのひとつに
ランニングがあるのですが
毎年この時期、梅雨入りすると
雨、雨、雨で‥。
走ることを継続することが難しくなります。
気持ちの切り替えが得意でないわたしは
一回休むと次にまたそのモチベーションまで気持ちを上げるのがとても大変なので
出来るだけリズムを崩したくないのですが
やはり雨には逆らえず‥。
梅雨時期は灰色の空とにらめっこ。
以前はジムに通っていたことも
あるのですが
マシンの上を走るより
やはり風を感じ、一歩一歩地面を踏みながら
走る方がわたしには合っていたようで
ランニングを継続し始めて
三年目になります。
この時期を乗り越え
夏が来れば日中のアスファルトの熱が
夜になってもなかなか冷めぬ中
いつまでも残るむせるような暑さと
息苦しさと闘いつつ走るのです。
苦しい中走っていると、ふと
なんのためにこんなに走っているのだろうと‥
自問したくなる時があります。
体力維持のため、体型維持のため
健康のため‥。
ストレス解消のため‥。と
いくつか理由が浮かぶのですが
やはりすべては明日の自分に繋がる‥。
そのために走っているのだと思います。
走ることによって得られることは
確かに体力や健康面に良い影響を
与えてくれます。
しかし、それだけでなく
「継続してきた」ということは少なからず
わたしの自信になっていて‥
たとえば、少し前になりますが
いろんな物事が上手く進まず
空っぽになってしまったような気持ちに
陥ってしまった時期があったのですが
「自分には走ることがある」
そう思うことで救われる気がしたのです。
何かひとつでも
どんな小さなことでも
毎日コツコツ続けることで
最初は小さな力でも
いつしか大きな大きな力となり
自分自身を癒し、救ってくれる絶対的な存在へと変わっていくのかもしれません。
そして2019年9月から続けている
このnoteも、わたしの強く確かな力となっているのです。
七十二候に使用している写真はすべて
写真ACからのものになります。