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(とても大事な)メモ書き

映画「対峙」を観てから、人は憎しみを超えられるのか、乗り越えてもいいのか、と心のどこかでずっと考えていた。かれこれ1年以上になる。

ようやく、何度考えても同じ答えが出るようになったので、今の時点で公開しようと心に決めた。

「それでも、人は、人に優しくできる。」

「人は、憎しみを越えようと、心に決めることはできる。」

これがきっと、わたしが表現者として伝えていきたいメッセージになる。そんな予感がしている。


わたしはちょっとしたイジメや嫌がらせを受けたことがあり、一生許さないと決めていた。正直、まだ許してない。わたしでさえこんな憎しみを抱きながら生きているのだから、世の中もっと復讐したい人はいるだろうと想像する。

それでも、この結論は揺らがない。
この人間の強さ・美しさを信じなければ、世界平和が実現するなんて、到底信じられないからだ。

わたしは命を奪いたいと思うほどの恨みを抱えたことはない。そんなわたしが、わたしなりの答えを出しても、机上の空論だとも思う。この点についてかなり悩んだ。けれど「言っても許される立場になるため」という目的意識をもつことは馬鹿げてる気がした。それこそ、舐めている。愚弄だ。他人事のままでは分からないことを知るために、飛び込むべきだろう。……まだ勇気は出ないけど。受け止める覚悟ができていない恥ずかしさもまた、今のわたしとして残しておこう。



例えば、いじめなら、いじめる側、いじめられる側、いじめたことがある側、いじめられたことがある側、それぞれの話を丁寧に聞きたい。聞いた内容を1人の人間の話だとして伝える役割もしたい。(ノンフィクションか、小説か、どっちがいいだろう?)

いじめにはとどまらず、いろんな社会課題に対してそんなアプローチができたらと思う。小さな一歩目として、消費者としてできることをやってみたり、傾聴の訓練をしたりしている。一貫してないようで、わたしの中では一貫してる(つもり)。

不特定多数の話じゃなくて、ひとつのストーリーをたくさん伝えていきたい理由。ストーリーになれば、自分ごととして捉えられる人が増える……かもしれない。何かふとした瞬間思い出して、咄嗟にグッと堪えられることがある……かもしれない。その「かもしれない」の可能性のために人生の時間を使うことに抵抗はない。少なくとも今は。

かなしい歯車は簡単に回ってしまう。歯車の邪魔をする小石になりたい。


既にそんな取り組みをされてる方がいたら教えてください。
加わりたいです!!!


もうちょっと肉付けして書きたいけど、余計なことを書きそうなので、最低限で留めておくことにする。好奇心に従って遊ぶ時間も欲しいのも本音。このバランスがまだまだ取れない。


気になった方へ

▼映画「対峙」(予告映像にネタバレが含まれる可能性があります)


▼傾聴の訓練(2024/8/21現在、まだまだお相手を募集中です)


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