中村佐知

シカゴ郊外在住 キリスト教書翻訳者、霊的同伴者。 著書:21歳で旅立った娘の闘病生活の回想録、『隣に座って:スキルス胃がんと闘った娘との11ヶ月』、母のグリーフワーク編『まだ暗いうちに』(ともにいのちのことば社刊)、『魂をもてなす:霊的同伴への招待』(あめんどう)。💜

中村佐知

シカゴ郊外在住 キリスト教書翻訳者、霊的同伴者。 著書:21歳で旅立った娘の闘病生活の回想録、『隣に座って:スキルス胃がんと闘った娘との11ヶ月』、母のグリーフワーク編『まだ暗いうちに』(ともにいのちのことば社刊)、『魂をもてなす:霊的同伴への招待』(あめんどう)。💜

マガジン

  • 主とともに退く〜リトリートへの招き〜

    このコーナーでは、過去に舟の右側誌に連載していた記事を、出版社さんの許可のもと、転載させていただきます。地引網出版さま、ありがとうございます。 私自身、学んでいる最中なので、今読み返すと、足りないなと思う部分も少なからずありますが、とりあえず記録として、またもしかしたらどなたかの役に立てるかもしれないとの思いをもって、こちらに置いておきます。

  • 私の祈祷書

    ブログなどにバラバラに載せていたいろいろな祈りを、一箇所にまとめてみることにしました。

  • クリスチャンセミナー「霊的観点からみる境界線」(前)中村佐知

    • 56本

    境界線とは究極的に「自分はだれか、どういう存在か」ということに関わるもの。 健全な境界線の発達、回復とは、単なるライフスキルの習得ではなく、私たちがキリストに似た者へと変えられ、神のかたちが私たちの中に回復されていくことにほかなりません。 講座は2020年2月12日から開講されましたが、現在でも受講可能です。前期後期各4週間分の学びですが、皆さんの都合のいいペースで進められます。前期では「境界線の10の原則」を取り上げ、具体例をあげつつ詳しく説明します。聖霊に働いていただきやすくなるように「霊的修練」も毎週ご紹介します。後期では神との関係、夫婦間、子育て、職場など、より実際的な場面での境界線を見ていきます。 「ハッシュタグ」という部分をクリックすると、ハッシュタグの一覧が出てきますので、「霊的観点からみる境界線1週」からご覧になってください。

  • クリスチャンセミナー霊的観点からみる境界線(後)中村佐知

    • 55本

    境界線とは究極的に 「自分はだれか、どういう存在か」ということに関わるもの。 健全な境界線の発達、回復とは、単なるライフスキルの習得ではなく、私たちがキリストに似た者へと変えられ、神のかたちが私たちの中に回復されていくことにほかなりません。 講座は、前期は2020年2月に、後期は2020年3月に開講されましたが、どちらも現在も受講可能です。それぞれ4週間分ずつの内容で、ご自分に合ったペースで進めていただけます。後期では、「神との関係・自分との関係」「夫婦における境界線」「境界線と子育て」「家族、友人、職場での境界線」といった具体的な状況を取り上げ、より実際的な観点から学んでいきます。後期は、霊的修練として「放棄の祈り」、レクツィオ・ディヴィナ、意識の究明、ラメント(嘆くこと)をご紹介します。

最近の記事

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境界線講座にご登録くださった皆様へ(講座の進め方)

本講座にご登録くださりどうもありがとうございます。本講座は、2020年2月〜4月にGrace Onlineにて開講されたもので、現在でもNoteのマガジン購入という形で引き続き受講が可能になっています。動画による講座ですので、皆さんの好きなペースで学習を進めていただけます。前期と後期があります。 この講座が、みなさんの境界線理解と、健全な境界線の発達・回復のためにお役に立ちますよう心から願っております。以下に本講座の学びの進め方をご説明いたします。 講座の進め方:  画面

¥4,000〜
    • 主とともに退く(8)主の宮で思いを巡らす:観想的姿勢

      みなさんは「観想」とか「観想的」という言葉を聞いたことはありますか?  「観想」をオンライン辞書で引いてみると、「(1)仏教用語:そのものの真の姿をとらえようとして、思いを凝らすこと。(2)特定の対象に向けて心を集中し、その姿や性質を観察すること」と出ています。 これって、最近巷でよく聞く「メディテーション」とか「瞑想」とか「マインドフルネス」と似てない?と思うかもしれませんね。 確かに似ているかもしれません。しかし、キリスト教の伝統の中で「観想」と言うとき、それは単なる

      • 主とともに退く(12回) 霊的修練としてのリトリート

        前回は、リトリートで行える霊的修練についてお分かちしました。本連載の最終回である今回は、霊的修練としてのリトリートについてお話しします。つまり、リトリートに行くことそのものを修練として行うことについてです。 ロバート・マルホーランドは、純粋な霊的修練とはどのようなものであるか、次のように述べています。 修練と聞くと、自分の弱い部分を克服し、強化するために行うものというイメージがあるかもしれません。鍛えたい筋肉をピンポイントで鍛えるためのトレーニングのように、忍耐が足りない

        • 主とともに退く(5)静まりとソリチュード

          私はこの数年、三ヶ月おきに二泊二日のリトリートに出かけています。このリトリートは、一日四回の全体での祈りと礼拝の時間、主催者による講義の時間、各人で持つ沈黙の時間、小グループでの霊的同伴の時間によって構成されています。残念なことに、この三月からはコロナ禍のため休止状態でしたが、先日、リトリート再開に関するアンケートが来ました。その中に、「もしオンラインでリトリートを行うことになった場合、二泊二日の期間中、ホテルなどに部屋を取るか、あるいは自宅で一人になれる場所を確保することが

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        境界線講座にご登録くださった皆様へ(講座の進め方)

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        • 主とともに退く〜リトリートへの招き〜
          10本
        • 私の祈祷書
          13本
        • クリスチャンセミナー「霊的観点からみる境界線」(前)中村佐知
          56本
          ¥4,000
        • クリスチャンセミナー霊的観点からみる境界線(後)中村佐知
          55本
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        記事

          主とともに退く(7)強制終了

          「強制終了が必要だったので参加を決めました」 これは、ある静まりのリトリートに参加した神学生の言葉です。強制終了とは、コンピュータで実行中のプログラムが暴走したり停滞したりしたときに、強制的に終了させることです。私たちの生活も時として、「暴走して自分では止まれない」、「身動きできなくなったので仕切り直しが必要だ」と感じるときがあるかもしれません。 ルース・ヘイリー・バートンは、静まりのリトリートに行くとは椅子取りゲームのようなものだと言いました。どういう意味でしょうか。椅子

          主とともに退く(7)強制終了

          主とともに退く(6)霊性のリトリートの構成要素

          本連載では霊性のリトリートに焦点を当てていますが、霊性のリトリートにもいろいろな目的やスタイルのものがあります。休息に焦点があるもの、自分のたましいの点検に焦点があるもの、重要な決断をしたり導きを求めたりするための祈りと識別に焦点があるもの、講師がいてなんらかの学びの要素が含まれるもの、リトリートリーダーの導きのもとで黙想や面談をするもの、一人で行くもの、グループで行うもの、リトリートのほぼ全期間を沈黙で過ごすもの、一部の時間を沈黙とソリチュード(一人になること)に当てるもの

          主とともに退く(6)霊性のリトリートの構成要素

          霊的同伴を体験して

          (これは、『舟の右側』誌2016年8月号 特集:霊的同伴とは何か に寄稿した記事です。出版社さんの許可を得て、こちらに転載させていただいています。) 霊的同伴の概要 私は、2011年12月より霊的同伴(スピリチュアル・ディレクション)を受け始めました。最初の3年間は所属教会の霊的形成担当牧師から、その後は現在に至るまで、シカゴ郊外にあるクリストス霊的形成センター(本部はミネソタ州ミネアポリス)の霊的同伴者養成コースの講師の一人から受けています。 霊的同伴とは何でしょうか

          霊的同伴を体験して

          主とともに退く(4)恵みのリズム

          イエスは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。……わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(マタイ11:28−29)と言われました。この最後の部分をThe Message訳聖書(注:ユージン・ピーターソンが翻訳した英語の現代語訳聖書)で見ると「自然とわき上がる(無理強いされない)恵みのリズムを学びなさい(learn the unforced rhythms of grace)」となっています。

          主とともに退く(4)恵みのリズム

          主とともに退く(3)たましいの安息

          ルース・ヘイリー・バートンは牧師家庭に育ち、牧会学博士号を取り、自らも教職者となりました。執筆や講演などの活動もするようになりました。働き[ルビ:ミニストリー]という点では充実していたものの、いつの間にか内側に乾きを覚えるようになりました。乾きの症状は、まず家族に対する忍耐の欠如や怒りの噴出という形で出ました。自分にとって大切な人を愛することすら満足にできない自分に、ルースはショックを受けました。しかも自分の内面を見るなら、それは氷山の一角にすぎませんでした。召命について、ア

          主とともに退く(3)たましいの安息

          主とともに退く(2)戦略的撤退

          前回、「リトリート(retreat)」とは本来、「後退」「撤退」「退却」を意味する語で、戦場で劣勢になったときに進撃を止め、形勢を整えるためにいったん戦略的に撤退することを指す軍事用語でもある、とお話ししました。 撤退と言うと、白旗を振って逃げるような負のイメージがありますが、戦略的撤退はそういうものではありません。より良いものをもたらすためにあえて一時的に退く、目的をもった自主的な選択です。スポーツで言えば「タイムアウト」です。試合の状況が苦しくなってくると、コーチが審判

          主とともに退く(2)戦略的撤退

          主とともに退く〜リトリートへの招き〜

          このコーナーでは、過去に舟の右側誌に連載していた記事を、出版社さんの許可のもと、転載させていただきます。 地引網出版さま、ありがとうございます。 私自身、まだ学んでいる最中なので、今読み返すと足りないなと思う部分も少なからずありますが、とりあえず記録として、またもしかしたらどなたかのお役に立てるかもしれないとの思いをもって、こちらに置いておきます。 目次は以下の通りです。  イエスの誘い  戦略的撤退  たましいの安息  恵みのリズム  静まりとソリチュード  

          主とともに退く〜リトリートへの招き〜

          主とともに退く(1)イエスの誘い

          みなさんは「リトリート」と聞くと何を思い浮かべますか? リトリートに参加したことはありますか? それはどういうリトリートでしたか? 私が初めて「リトリート」と呼ばれるものに出会ったのは大学に入学したときでした。新入生のための泊りがけのオリエンテーションが学外の施設であり、それが「新入生リトリート」と呼ばれていました。その後も心理学科のリトリート、教会の女性リトリート、夫婦リトリート、役員リトリートなどに参加する機会がありました。 これらに共通していたのは、キャンプ場やリゾ

          主とともに退く(1)イエスの誘い

          Come Slow Me Down

          Come Slow Me Down

          イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて(3)

          続きです。今回が最終回です。第三部より。(ちなみに、この目次の日本語訳は、あめんどうさんから出ている邦訳版からのものです。)  私が今回本書を読み直したとき、いちばんインパクトを受けたのは、この第三部だったかもしれない。この箇所では特に二点、強く心に響いたことがあった。一つは、クリスチャンリーダーとは、上へ上へ行こうとする人ではなく、キリストの模範に従って、下へ下へと向かう歩みをする人であること。もう一つは、そのようにキリストに導かれて歩んでいくための訓練は、 絶えず熱心に

          イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて(3)

          イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて(2)

           前回の続きです。第二部より。  Spectacular(スペクタキュラー)でありたい誘惑。ナウエンは、リーダーが陥りやすい誘惑を、なんと的確に言い表していることだろう。Spectacularとは、ショーなどで観客を「うわ~っ、すご~い!」と思わせるようなこと。見事な説教、見事な洞察力、見事な解き明かし、見事な統率力、見事な問題解決能力、見事な… ナウエンは、彼の「見事な」経歴や業績ゆえに、よく訓練され、整えられた、何でも一人でできる、有能な説教者、司祭だと思われるようにな

          イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて(2)

          イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて(1)

           約20年ぶりに、ヘンリ・ナウエンの「イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて」を読み返した。(持っているはずなのに、書棚に見つからなかったので、図書館で原書を借りて、だけれど。)  ハーバード大学で教鞭を取っていたナウエンが、ラルシュ共同体という知的障害者の施設の司祭となる。この世の常識ややり方が通じない環境で、それまで彼が学んできたこと、実践してきたことがもはや意味をなさない環境で、ナウエンがどういう肩書きや業績を持った人なのかをまったく知らないし気にもとめない人

          イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて(1)