![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/157263229/rectangle_large_type_2_07c85b863139703a41e7a5c9f4b795f2.jpeg?width=1200)
主とともに退く(8)主の宮で思いを巡らす:観想的姿勢
みなさんは「観想」とか「観想的」という言葉を聞いたことはありますか?
「観想」をオンライン辞書で引いてみると、「(1)仏教用語:そのものの真の姿をとらえようとして、思いを凝らすこと。(2)特定の対象に向けて心を集中し、その姿や性質を観察すること」と出ています。
これって、最近巷でよく聞く「メディテーション」とか「瞑想」とか「マインドフルネス」と似てない?と思うかもしれませんね。
確かに似ているかもしれません。しかし、キリスト教の伝統の中で「観想」と言うとき、それは単なる精神統一やストレス解消法や集中力アップ!というものとは違います。これをすれば願いが叶うという、いわゆる「引き寄せの法則」のようなものでもありません。キリスト教の伝統における「観想」は、世界の造り主であり、私たちを愛しておられる聖書の神の存在と切り離せないのです。
観想は、「観て」「想う」と書きます。つまり、神を観て、神を想うことです。心を神様に向けて集中し、そのお姿や性質を観る。しかし科学者が研究対象を観察するような見方ではなく、むしろ愛する人の一挙手一投足をじっと見つめるように、その人の気持ちも、考えていることも、好みも、癖も、その人に関わるすべてを知ろうとしてじっと見つめる、そんなイメージでしょうか。
ローマ教皇グレゴリウス1世は、「観想」を「ただ神のみに対して、心を込めた注意を向けること」だと言ったそうです。ほかのことに気を取られることなく、ただ神だけを見つめる……。もし誰かが自分のことをそんなふうに見つめてくれたら、どれほど愛を感じるでしょうか。観想とは、私たちから神様への愛情表現でもあるのかもしれません。
また、「観想」を英語ではcontemplationと言います。これはconとtempleの複合語で、conは withを意味し、templeは宮、神殿です。宮とは、聖書的には神の御臨在のある場所なので、いわば「with God」、神と共にいることです。
ダビデは「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために」と言いました(詩篇27・4)。これぞまさしく観想ではないでしょうか。以前の私は、この箇所は「なるべく頻繁に教会へ行って祈りたい」という意味だと思っていました。しかし、私たち自身が聖霊の宮であり、インマヌエルなる神が共におられるのだから、主の麗しさに目を注ぐとは、いつでもどこでも絶えずできるはずだと気づきました。
このように、「観想」とは共におられる愛なる神を意識し、見つめ、その愛を味わうことです。そして、私たちを愛しておられる神がいつでも共にいてくださり、私たちにご自身のお心を現そうとしておられると信頼することを、「観想的な」姿勢と呼ぶことができます。さらに、生活の中でいつも共におられる神を意識するとき、自分自身を観る見方も、他者を観る見方も、状況を観る見方も、そこに神がおられる、そこで神が働いておられる、という前提のもとに立つことになります。そのような思いで自分自身、他者、状況を観ることも、観想的な姿勢、観想的な態度です。
前回までに述べてきたように、リトリートは神様が差し出してくださる安息を、静まりの中で味わう時です。静まるとは、一見すると何もしていないかのように見えますが、実は神様との関係において最も重要なことをしているとも言えます。それは、泥水の泥が沈殿するまでじっとするかのように、頭や心の中を飛び回るさまざま思いや感情が、落ち着くための時間とスペースを作ることです。自分の生活の主導権を、主権を、神の御前に置き、神が語られるのを待つことです。それは、観想的な姿勢へと私たちを招きます。そうやって「今ここ」におられる主の御顔を仰ぎ見るとき、言葉は不要かもしれませんし、逆に言葉がほとばしりでるかもしれません。いずれにせよ、導いておられるのは主で、私たちはそれに応答するだけです。
私たちは静まりを求めてリトリートに行きますが、想定外のことが起きるときもあります。実は先月、こんなことがありました。オンラインのリトリートに参加するためにホテルに部屋を取って二泊してきたのですが、ホテルに到着すると、ロビーには隣接の室内プールを貸切りにしてパーティーをしているグループがいたのです。コロナ禍の折でもあり、閑散としていることを期待していたので面食らいました。さらに最終日の朝には、なんと私の部屋の真上でメンテナンスの工事が始まりました。もはや静まるどころではありません。フロントに文句を言おうかと思いました。しかしその前に深呼吸をして、目を閉じてドリルの音に耳を傾けてみました。全身で振動を感じてみました。すると、私の隣でイエス様も一緒に振動に身を任せておられるように感じました。そして私を見つめて、愉快そうに、しかし優しく、「思いどおりにならないものだねぇ」とおっしゃった気がしました。
そのときのリトリートのテーマは、「他者のために(キリストに似た者に)形造られる」でした。他者をより愛し、仕える者とされるために主の御前に出ようとしていたのに、私は他者を邪魔者扱いし、さらには敵視していたのです。イエス様は、ドリルの音と振動をとおして、ユーモアをもって私の中にあるその傾向を指摘してくださいました。今後も他者を私の計画を邪魔する者として見そうになるときは、このときのイエス様を思い出そうと思いました。不快だったドリルの音と振動は、私とイエス様の間の秘密の暗号のようになりました。
このようなことは、リトリートに行かなくても体験できるでしょう。しかしリトリートは、神様のために特別に取り分けられた時間です。意図的に集中して主に目を向けようとしているので、私たちの心はより主に対して開かれています。御言葉を読む時、散歩をする時、食事をする時、ベッドに横たわる時、ちょっとした一瞬一瞬にも、神は何を語ってくださるでしょうか。このことについてゆっくり祈ろう、と思っていたのとは違うことが示されるかもしれません。潜在意識の奥にしまわれていたものが、静まりの中で浮かび上がってくるかもしれません。思い巡らしの主導権まで主に渡すのは勇気がいりますが、主は愛のお方です。前述の詩篇27篇はこう続きます。
それは 主が
苦しみの日に私を隠れ場に隠し
その幕屋のひそかなところに私をかくまい
岩の上に私を上げてくださるからだ。
『舟の右側』2021年1月号掲載