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主とともに退く(7)強制終了
「強制終了が必要だったので参加を決めました」 これは、ある静まりのリトリートに参加した神学生の言葉です。強制終了とは、コンピュータで実行中のプログラムが暴走したり停滞したりしたときに、強制的に終了させることです。私たちの生活も時として、「暴走して自分では止まれない」、「身動きできなくなったので仕切り直しが必要だ」と感じるときがあるかもしれません。
ルース・ヘイリー・バートンは、静まりのリトリートに行くとは椅子取りゲームのようなものだと言いました。どういう意味でしょうか。椅子取りゲームでは、丸く並べた椅子のまわりを音楽に合わせてぐるぐる回ります。そして音楽が止まると、目の前にある椅子に座ります。どの椅子に座ろうかと迷ったり、衣服がしわにならないようにゆっくり座ったりしません。とにかく座ります。リトリートに行くのも、そういうものだというのです。それまで全速力で走っていたのが、急に音楽が止まったかのようにパタッと座り込む…… まさに強制終了です。たいていの人は、リトリートに参加するためにあらかじめ仕事を終わらせておくとか、心を整えておくとか、そういうゆとりもないままにリトリートに来るものです。それでかまわないのです。事前の準備をしようと考えると、それだけでリトリートに行くのも億劫になります。強制終了でいいのです。
とにかく出かけていって、心身ともに休息をとり、神様と集中した時間を過ごす…… なんと夢のような話でしょう! ところが、いざリトリートに行こうとすると、ためらいを覚えることも珍しくありません。
準備は不要と言われても、自分の留守中も家庭や教会や仕事がちゃんと回るよう、段取りを整えなくてはならないと感じるのです。子どもを預ける手配をしたり、奉仕の担当を他の人に頼んだり、出かける前にどうしても片付けておくべき仕事があるかもしれません。私の場合、子どもたちが小さいうちは、洗濯と食料の買い出しを済ませ、カレーを大鍋に仕込んでから出かけたものでした。リトリートの最中に「お母さん、〜〜はどこ?」と連絡がこないように、留守中に家族が必要になりそうなものは、確認して揃えておきました。
事前に段取りを整えておけば、確かに安心して出かけられますが、留意すべき点もあります。出かける前にあれもこれも準備しなければ、と思う気持ちの背後にある動機です。もしかするとそこには、留守中も家庭や教会や仕事を自分の納得するように回したいという、一種の支配欲があるのかもしれません。あるいは、自分がいなくても物事が問題なく回るのであれば、自分の存在意義が脅かされてしまうと感じるのかもしれません。リトリートに出かける前に「これはやっておかねば」という思いが出てくるとき、それが留守番する人たちが困らないようにという配慮からなのか、それとも自分の願いやニーズや何らかの弱さから出ているのか、考えてみるといいでしょう。
さらに、事前に留守中の準備を整えることがたとえ愛から出ていたとしても、その援助の行為が愛する人の自立や成長の機会を奪ってしまう場合もあります。イエスは復活後、ご自分の昇天について、こう言われました。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(ヨハネ16・7)弟子たちはイエスにずっと地上にいてほしかったことでしょう。しかしイエスが地上に残られたら、聖霊が私たち一人ひとりのうちに住まわれなくなってしまうのです。イエスは、去っていかれることにより、私たちにより善いものをお与えくださいました。
ヘンリ・ナウエンはそれを「不在によるミニストリー」と呼んでいます。時には自分が不在になることが、愛する人にもっと益となることがあるのです。それとは逆のことが起きる顕著な例は、共依存です。共依存とは、相手を困った状態から繰り返し助け出すことにより、その人をますます依存状態に縛り付けてしまうことです。自分の不在中も家庭や教会を守りたい、仕切りたいという強い気持ちがあることに気づいたら、その思いを主に明け渡し、愛する人たちを主の御手にゆだねてください。そのとき、気がかりなことを紙に書き出して、封筒に入れて主にお渡しするという自分なりの儀式のような時間を持ってもいいかもしれません。
リトリートに行くことへのもう一つの内的抵抗に、外の世界から遮断されることへの恐れがあります。リトリートの最中は、基本的に新聞、テレビ、インターネット、メールなどから離れます。社会で大きなことが起こっても、すぐに情報が入りません。フェイスブックやツイッターなどのSNSで、情報を得ることも発信することもしません。発信し慣れている人にとっては、これは思いのほか大きなチャレンジとなります(自分自身を振り返りつつ、今これを書いています)。リトリートの最中、つい美しい景色の写真をSNSに載せたり、自分が神様に親密に語られていることを、全世界に向けて即座に分かち合ったりしたくなるのです。この衝動はいったいどこから来るのでしょうか。
また、しばらくSNSから離れていると、FoMO[ルビ:フォーモ](Fear of Missing Out「取り残されることへの恐れ」)と言って、世間の流れに遅れを取るような、友人たちから取り残されるような、そんな不安を覚えることもあります。この恐れはどこから来るのでしょうか。
こういった内的抵抗は、自分でも意識していなかった衝動や執着や弱さが、自分の中にあったことに気づかせてくれます。しかしそれに目を向けるのは、自分を責め、打ちたたき、さばくためではありません。イエスは私たちの内的抵抗を、憐れみをもってご覧になっておられます。私たちは自分の中に「良くない」ものがあると気づくと、それに対処してからでないと主の前に出られないと思うかもしれませんが、このような気づきは、むしろトランスフォーメーション(変容)への招きなのです。
自分の内側の弱さに主が光を当ててくださるとき、私たちにできることは、そこに光が十分に届くよう、邪魔なものをどかしてスペースを作ることではないでしょうか。そしてその光に、主の語りかけに、自分を開くのです。暴走したプログラムがリセットされるのは、強制終了をしてからです。私たちの内側に抵抗があるのを承知で、主は招いておられます。休息へと、そして主との語らいの時間へと。
『舟の右側』2020年12月号掲載