霊的同伴を体験して
(これは、『舟の右側』誌2016年8月号 特集:霊的同伴とは何か に寄稿した記事です。出版社さんの許可を得て、こちらに転載させていただいています。)
霊的同伴の概要
私は、2011年12月より霊的同伴(スピリチュアル・ディレクション)を受け始めました。最初の3年間は所属教会の霊的形成担当牧師から、その後は現在に至るまで、シカゴ郊外にあるクリストス霊的形成センター(本部はミネソタ州ミネアポリス)の霊的同伴者養成コースの講師の一人から受けています。
霊的同伴とは何でしょうか。英語ではスピリチュアル・ディレクション(霊的指導)と呼ばれますが、メンタリングやコーチングのように、指導やアドバイスを受けることが目的ではありません。カウンセリングのように、内面的癒しや問題解決を目的とするものでもありません。人生相談でもありません。問題解決や心の傷の癒し、新しいスキルや知識の習得といったことは、副産物として起こることはあっても、それ自体は霊的同伴の目的ではないのです。
クリスチャンは皆、イエスに似た者へと変えられていく霊的旅路(霊的形成の過程)の途上にあると言えますが、スピリチュアル・ディレクター(以下、霊的同伴者)は、他者のその旅路に、コミットメントを持って同伴する人のことです。『聖なる傾聴ーー霊的同伴の技』の著者マーガレット・ガンサーが霊的同伴者を「魂の助産婦」と呼んだように、ディレクティー(ディレクションを受ける人のこと。以下、被同伴者[1] )のうちに聖霊によってキリストが形造られるプロセスを、援助し、促し、励まし、守る働きをする人だとも言えるでしょう。そのプロセスにおける真の指導者はあくまでも聖霊であり、霊的同伴者の主な役目は、定期的に被同伴者と会い、会話を通して、その人が日々の生活の中で、すでにそこにある神の御臨在と恵み、聖霊の働きに気づき、その導きに応答しながら神との関係を深めていくのを助けることです。
しかし、コミットメントを持って同伴すると言っても、霊的同伴の関係は結婚のように生涯続く固定されたものではありません。霊的同伴を受ける人のニーズによって、数ヶ月で終わる場合もあれば、数年、数十年と続く場合もあります。また、途中で同伴者が変わることも珍しくありません。たいてい、一年おきに振り返りの時間を取り、関係を更新するかどうかを祈りをもって判断します。(カトリックの黙想の家などでは、そこでのリトリート参加者に単発のセッションを提供することもあります。)
具体的には、通常、月に一回一時間のセッションを持ちます。会う場所は、喫茶店など外からの雑音が入る場所や屋外は避け、静かな部屋を選びます。被同伴者は、同伴者に自分の霊的状態や日々の祈りのこと、そのほか何でも、自分が聴いてほしいと思う事柄を分かち合います。また、進路や重要な選択など、何か判断しなければならないことがあるときは、その判断のプロセスに同伴してもらうこともあります。
同伴者は、分かち合われるものは被同伴者の魂の深みから出てくるものとして、敬意と尊重を持って傾聴します。そこで語られる被同伴者の話(ルビ:ストーリー)は、いわば「聖なる地」であり、同伴者はそこに入らせてもらえることを特権として受けとめ、「履物」を脱ぎ、膝をかがめて謙虚にその中へ入っていきます。霊的同伴者と被同伴者の関係は、霊的旅路を歩んでいる者同士としてあくまでもフラットであり、師と徒のようなものではありません。ただ、究極的なゴールはあくまでも被同伴者の神との関係が深まることであり、その意味で、主役は被同伴者です。
霊的同伴には、厳格な守秘義務が伴います。同伴者は自分がだれの同伴をしているかということも、他人には言いません。しかし、同伴者はピアスーパービジョンといって、霊的同伴のミニストリーを行っている者同士で4〜5人のアカウンタビリティーグループのようなものを作り、そこで、同伴セッションの最中に出てくる[傍]自分自身の[/傍]感情や霊の動きについて仲間[ルビ:ピア]に分かち合い、そこで互いのプロセスを助けます。加えて、同伴者自身も別の人から霊的同伴のセッションを受けていることが必須とされます。つまり、どんなにベテランの同伴者でも、自分自身もまた別の同伴者から霊的同伴を受けているのです。
霊的同伴の体験
私が霊的同伴を受け始めるようになったのは、所属教会の霊的形成担当牧師のブログで、彼が霊的同伴について書いているのを読んだのがきっかけでした。彼は、霊的同伴は、祈りにおいて、また日々の生活の中で、自分が神の御声を聞き分けることを助けてくれると説明し、同伴の希望者を募っていました。それで申し込んだのが始まりでした。
私が現在受けている霊的同伴は、同伴者の自宅の一室で持たれています。そこは緑の多い庭に面した窓の多い明るい部屋で、小さなテーブルとロッキングチェアが三つ置かれています。一つは同伴者が、一つは被同伴者が座り、もう一つにはキリストが座っておられると想定します。部屋にはたくさんの観葉植物や花の鉢があり、壁には十字架が飾られています。そしてテーブルには、聖霊がその場に共におられることの象徴として、ロウソクの灯が点されます。
セッションでは、最初に数分間の沈黙の時間を取ります。そうやって心を鎮め、そこにある聖霊の御臨在に心を向けるようにするためです。聖書の一節を朗読したり、テゼ共同体の賛美を静かに聴くこともあります。そして聖霊が二人の会話に伴い、導いてくださるよう祈ってから始めます。
それから被同伴者が分かち合いたいことを自由に話します。被同伴者が語る内容は多岐にわたり、私の場合はいかにも「霊的」と思えるような事柄だけを話すのではなく、むしろ、日常の他愛のないこと、しかし自分の心にひっかかっていること、心を占めているようなことを話すことが多いです。同伴者は私が語ったことについて、「それについて祈りましたか?」「どのように祈りましたか?」「そのときあなたはどう感じましたか?」「神様はどう答えてくださったように感じましたか?」「そのあと、あなたはどう応答しましたか?」「その件についてあなたが祈っていないのは、なぜだと思いますか?」「その状況の中で、神はどこにおられると感じますか?」「その体験の中で、神の臨在(または不在)はあなたにどのように感じられましたか?」「神はあなたに何をするように招いておられると思いますか?」といった問いを発し、私が直接、神の御臨在や神の語りかけに注意を払えるよう助けてくれます。
また、自分がそのときに置かれている状況で、どう祈ったらいいのかわからないとき、「こんなふうに祈ってみたらどうでしょうか」と示唆をいただくこともあります。たとえば、数年前の年度末のころ、子どもたちの学校の行事が目白押しで、毎日せわしなく、心が落ち着かなくなっていたことがありました。学年末にかけてどんどん忙しくなる中で、自分のなすべきことを十分に果たせないのではないかという不安を同伴者に打ち明けたところ、「まだ起こっていないことについて心配しているようですね。それでは、『歓迎の祈り』をしてはどうでしょうか」と勧められたことがありました。歓迎の祈りとは、自分の心にわきあがる様々な不安や思いを、あえて歓迎するという祈りです。それらの不安や恐れなどを否定したり見て見ぬふりをしたりするのでなく、その存在を認め、いったん受け止めて、それから主に明け渡すという祈りです。
福音書の中の一つの情景を読み、その場に自分を置いて黙想するよう促されることもあります。同伴者が聖書箇所を数度ゆっくりと読むのを、自分もその場にいると想像しながら祈りをもって聞きます。そうやって、その場面をイエスとともに追体験する中で、イエスからの直接の語りかけをいただくのです。
また、私は最近、21歳の娘をガンで亡くしたのですが、娘の闘病と死という体験の中で、私がどう葛藤し、不安や怒りや悲しみを覚えているか、またどう希望や慰めを見出しているかといったことについても話しています。クリスチャンのくせにこんな感情を持っていたら叱られるのではないか、というような思いも、すべて話しています。同伴者は、私の語る一言一言を優しく、ときには一緒に涙しながら聴いてくれます。母親としての自分の至らなさや後悔を、涙ながらに打ち明けたこともあります。同伴者がうなずきながらただ静かに耳を傾けてくれるとき、私は同伴者を通して、イエスの恵みとあわれみが私に差し出されるのを感じます。
ときには、「どうしたらいいのか?」という迷いの中で、答えや解決策をすぐに差し出してもらいたくなるのですが、そんなときは、「しばらく静まりましょうか」と沈黙の時間を取るよう招かれることがあります。その沈黙は、数十秒から数分、私が沈黙を破るまで続きます。一般の会話だと、途中で言葉が止まって沈黙すると気まずく感じるものですが、霊的同伴のセッションでは、沈黙は歓迎されます。それは、聖霊の語りかけや促しに気づいたり応答したりするときになる場合もあれば、ただ神様の愛を安らぎのうちに味わう時間となる場合もあります。
内側に起こる変化
霊的同伴で興味深いのは、私の神体験が重視されるところかもしれません。つまり、私が何を知り、何を信仰によって信じているかよりも、信じていることを実際に日々の生活の中で[傍]どう[/傍]体験しているのかに注目します。例えば、私は「神は愛」だと頭では知っていますし、信仰によって受け入れていますが、日々の生活の中でどこに神の愛を見出し、どのように神を愛として体験しているでしょうか。苦難や試練に遭い、切なる必死の祈りが答えられなかったとき、私はその現実にどう応答しているでしょうか。その結果、私はどのような人へと変えられていっているでしょうか。頭で知っていることを実感として体験していないなら、それはなぜでしょうか。
私たちの多くは、自分の感情や体験に頼らずに、神に愛されているという真理を信仰によって受け入れるよう教えられていると思います。しかし信仰を持つとは、聖句や使徒信条を暗記することではなく、三位一体の神との親密な交わりの中に、そして神の民の共同体の中に入れられることです。たとえ客観的に証明したり記述したりすることはできないとしても、そこには何らかの神体験があるはずだと思います。(泣くとか笑うとか倒れるとか、体に電流が走ったように感じるとか金粉が降るのを見るといった、ある種の現象を体験することではなく。)
問題は、私たちは神の御臨在や御声に対して、往々にしてあまり敏感ではないことかもしれません。私たちの持つ神のイメージは何らかの型にはまっていて、そこから外れるものは見逃してしまうのかもしれません。生活のペースが早すぎて、日常の中にある恵みを通り過ぎてしまうのかもしれません。刺激や情報にさらされすぎて、神のかすかな細い御声が聞こえないのかもしれません。
また、信仰の旅路では、神がどこにおられるのか、神の導きも御声もまったく感じられない、「魂の闇夜」と呼ばれる時期を通るときもあります。いつも注がれていたはずの主の愛が、わからなくなってしまうのです。悲惨な出来事、苦しみ、孤独、枯渇感、そういったものの中で、神を見失い、神に見捨てられたかのように感じるときです。私たちは霊的な歩みにおいても、外的にも内的にもさまざまなものに執着しがちですが、「魂の闇夜」を通らされる中で、それらの執着を手放すことを学びます。魂の闇夜は、特定の体験や祈りの答えではなく、何よりも神ご自身を愛する者になるように私たちを導きます。ただしこの道のりは、一人で通るには非常に辛いものです。そんなとき霊的同伴者は、私が通っている暗闇は決して珍しいものではなく、また私が道を誤ったから紛れ込んでしまったのでもなく、神へと続く通り道の避けられない一部であることを私に思い出させてくれます。そしてその暗闇を私と一緒に通ってくれます。
私にとっての霊的同伴のイメージを一言で言うなら、「静謐」です。忙しい毎日の中で霊的同伴のセッションにやってくると、心と体がほっと一息つくように感じられます。静けさの中で、生産性や効率や解決を出すことや評価されることから自由になって、正直な自分の思いや体験を分かち合えることは、私の魂にとって大きな安らぎです。
霊的同伴を受けるようになってからいちばん感じる私自身の変化は、物事の結果[ルビ:アウトカム]を支配したいという欲求を手放せるようになってきたことでしょうか。それに伴い、内なる静けさも増し加えられつつあるように思います。心の静まりを味わうようになって、自分がこれまで、いかに落ち着きのない騒々しい心の状態に慣れていたのか、衝動的な生き方を活動的な生き方といかに勘違いしていたのかにも気づくようになりました。前述の娘のガンの闘病の十一ヶ月間は、私たち家族にとって大きな試練と痛みのときでしたが、病院と自宅の連日の往復も、また自宅で娘の壮絶な最期を看取ったときも、主が与えてくださった内なる静けさとその中にある御臨在は、私にとって大きな支えでした。
さらに、祈りのコンセプトも大きく変わってきました。言葉(異言を含む)を用いて祈るだけが祈りではなく、祈りに伴う心の姿勢、つまり、自らを明け渡して主を慕い求めるという心の姿勢もまた、祈りそのものであると思うようになってきました。同様に、霊的同伴も、そのセッション自体が神の前に祈りとして差し出されているのかもしれません。
霊的同伴のミニストリーへ
数年に渡って私自身が霊的同伴を受け、神との関係を深めるのを助けてもらう中で、私もまた他の人たちの霊的旅路において、同伴者として寄り添うことができたらという願いを持つようになりました。霊的同伴には臨床心理士のような正式な資格はありませんが、米国には福音主義スピリチュアル・ディレクター協会(ESDA)というものがあり、霊的同伴を行なう際のガイドラインや倫理基準などが設けられています。また、霊的同伴者の養成講座や神学校でのプログラムもあります。
そこで私は、2014年からクリストス霊的形成センターで持たれている“Tending the Holy”という霊的同伴者養成の2年コースを受講し、この5月に修了しました。このコースでは、何よりも受講者の観想的な霊性の養いに焦点が置かれます。観想的な生き方とは、必ずしも世俗社会から引きこもり、絶えず瞑想に耽るというものではなく、その対立概念は「衝動的であること」だと教えられました。観想的な生き方には、イエスの生き方がそうであったように、静まりと活動のリズムがあります。そして観想的な霊性が養われることにより、私たちの存在自体が世に対して神の御臨在と平安を証しするものになっていくのかもしれません。
霊的同伴者は、キリスト教霊性の伝統のいくつもの流れに通じた、聖霊の動きに敏感な献身的傾聴者です。リージェントカレッジ客員教授のゴードン・T・スミスは、自分が人を指導する立場にいる限り、自らが霊的同伴を受けることは必須だと述べていますが、実際、信徒だけではなく、孤立しがちな立場にある教職者にとっても、霊的同伴者のような存在は貴重だと思います。日本においても、個々のキリスト者の成熟、そして教会のホーリスティックな成長のために、霊的同伴のミニストリーは今後必要とされてくるのではないでしょうか。