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主とともに退く(3)たましいの安息
ルース・ヘイリー・バートンは牧師家庭に育ち、牧会学博士号を取り、自らも教職者となりました。執筆や講演などの活動もするようになりました。働き[ルビ:ミニストリー]という点では充実していたものの、いつの間にか内側に乾きを覚えるようになりました。乾きの症状は、まず家族に対する忍耐の欠如や怒りの噴出という形で出ました。自分にとって大切な人を愛することすら満足にできない自分に、ルースはショックを受けました。しかも自分の内面を見るなら、それは氷山の一角にすぎませんでした。召命について、アイデンティティーについて、さまざまな問いや混乱が渦巻き、平安がなかったのです。彼女はそれをこのように表現しています。「今、私が行っている数々の活動は、自分のたましいに対してどのような作用をもたらしているだろうか。それは私のたましいをよりキリストに似たもの、より神と隣人を愛する人へと変容[ルビ:トランスフォーム]しているか。それとも、何か違うもの、キリストには似ていない姿へと、変形しているだろうか。」
この葛藤はきっと早めに訪れた中年期の危機だろうと思ったルースは、クリスチャンカウンセラーのもとへ行きました。しかしカウンセラーからはむしろ霊的同伴を勧められ、それが何なのかわからないものの、霊的同伴を受けることになりました。ルースは、こういうスキルを習得すればいいですよといった助言や、手っ取り早い解決法を提示してもらうことを期待していましたが、霊的同伴者が彼女に言ったのはこうでした。「あなたは泥水を入れて振った瓶のようですね。あなたに必要なのは、泥や浮遊物が底に落ち着いて水が透明になるまで、じっと静かに座っていることでしょう」
「泥水を入れて振った瓶」とは、どういう意味でしょうか? よどんでいる。視界が悪い。浮遊物がぐるぐる回っている……。
この写真をご覧ください。
![](https://assets.st-note.com/img/1728239277-kP95QMVZ8uEfx40IbBtTmend.jpg?width=1200)
左は小砂利や泥の混ざった瓶を振ったもの、中央はその瓶を1日放置したもの、右はさらに3日間置いたものです。1日置いた水も随分透明に見えますが、3日間置いたものと比べれば、まだ濁りがあるのがわかります。
私たちの内面はどうでしょうか。左の状態が望ましくないのはわかります。しかし、右のように澄み切った状態にあると言える人はあまりいないのではないでしょうか。多くの人は、そのどこか中間だろうと思います。実際のところ、この地に生きて活動している限り、完全に澄んだ状態を終始保つことは困難でしょう。それでも、せめて定期的にこのような状態になれるなら、そしてその状態で神に聴き、その応答として「日常の活動」に携われるなら、どれほど良いでしょうか。
日々のディボーションが私たちの内面を中央の状態にしてくれるものだとしたら、リトリートは、よりまとまった時間を取って日常から退くことにより、右の状態になるのを助けてくれるものだと言えます。鍵は、「まとまった時間」を取ることです。瓶の中の泥水と同じように、私たちの内面が十分に落ち着くまでには、それ相当の時間がかかるのです。
日常から退いて静まると聞いたとき、ルースは恐ろしく感じました。予定や課題のない静かな時間を一人で過ごすことが、どういうものか予想もつかなかったからです。自分が退いている間に家庭や教会で何か問題が起きたらどうしようか。視界がよくなったときに見えてくる、自分の内面や周囲にあるものを直視する勇気があるだろうか。そのときに神が差し出してくださるものを、受け取る勇気はあるだろうか……
しかし、何を期待したらいいのかわからないものの、ルースはこれを神様からの招きとして受け取ろうと決めました。そして、定期的に時間を取って静まりのリトリートに行くようになりました。今から30年ほど前のことです。静まりの中で得たヴィジョンをもとに、彼女は現在、トランスフォーミングセンターというクリスチャンリーダーのたましいの健康と霊的形成をサポートするための働きをしています。
イエスは、「主は私たちの神。主は唯一である。心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マルコ12:29-30)と言われました。リトリートでは、心、精神(知性)、体(力)の休息を求めます。それは、私たちの心、精神、体において、主以外のものが神になっていないか、点検することでもあります。主以外のものに支配されている部分を主に明け渡し、解放することでもあります。この明け渡しがもたらす休息は、単なる気分転換以上のものです。たましい(いのち)の安息です。
安息日に私たちが手のわざを止めるのは、この世界を治めているのは王なるイエスであることを認めるためでもあります。自分が担っているあらゆる働き、責任、権威も、究極的に神の主権のもとにあると認めることです。生活の第一線からしばし退き、リトリートに行くのも同じです。神への信頼とへりくだりをもって、自分が握りしめているものを手放します。そして改めて主が与えてくださるものを受け取って、再び日々の生活の中に戻っていきます。私たちがなかなか休息できないのは、もしかすると、神から委ねられたものが、神以上に大切になり、自分を支配するものになっているのかもしれません。しかし手を開いて主を仰ぎ見るなら、主はご自身のリズムを教えてくださいます。
「疲れていますか? 押しつぶされそうになっていますか? もう宗教にはうんざりですか? もしそうなら、わたしのところへいらっしゃい。わたしと一緒に行こう。そうすれば生き返るから。本当の休息の取り方を教えてあげよう。わたしと一緒に歩み、わたしと一緒に働きなさい。そして、わたしがどうやっているのか、見ていてごらん。自然とわき上がる恵みのリズムを学びなさい。」
『舟の右側』2020年8月号掲載