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主とともに退く(12回) 霊的修練としてのリトリート
前回は、リトリートで行える霊的修練についてお分かちしました。本連載の最終回である今回は、霊的修練としてのリトリートについてお話しします。つまり、リトリートに行くことそのものを修練として行うことについてです。
ロバート・マルホーランドは、純粋な霊的修練とはどのようなものであるか、次のように述べています。
純粋な霊的修練とは、何の見返りも期待せずに、愛から出る従順を神にお捧げするものです。私たちの側からは何の条件もつけません。何の時間制限も設けません。その修練を通して、神に自分をどう変えていただきたいのかという期待も抱きません。ただ神にその修練をお捧げするのです。そして神がそれを続けてほしいと思われる限り、ずっとお捧げし続けるのです。
修練と聞くと、自分の弱い部分を克服し、強化するために行うものというイメージがあるかもしれません。鍛えたい筋肉をピンポイントで鍛えるためのトレーニングのように、忍耐が足りないから忍耐を養う修練をする、言葉での失敗が多いから舌を制御するための修練をする、という具合に。そのような考え方も一理あると思いますが、マルホーランドが修練について上記のように語っているのは、自分が求める変化を達成するために修練するという考えは、霊的変容を自分のコントロールのもとに置くことになるからです。マルホーランドは、霊的修練とは私たちから神への捧げ物であると言います。捧げ物なので、代わりに何が欲しいという交換条件はつけません。霊的変容とは聖霊主導でなされるものです。そこでの霊的修練の役割とは、自分が求める結果を得るための手段ではなく、聖霊に自分の中で働いていただくためのスペースを作るための手段なのです。神は私たちのどこをどんなふうに変容させたいかご存知です。ですから、私たちが捧げる修練がどんな実を結ぶことになるのかは、主にお委ねします。
マルホーランドは続けて述べます。
私たちが修練をお捧げし続けるとき、その修練は私たちの内に神の恵みが流れ込む手段となります。私たちの身体の死んだ部分が、キリストのかたちにあるいのちへと変えられていくために、神が働かれ、動かれるための手段です。
リトリートが霊的修練であるというとき、それは自分の都合で行ったり行かなかったりするものではなく、ある程度定期的に、継続的に行うものであることを意味します。仕事や日常に関わることはせず、ただ神と過ごすための時間を取り分けて、それを主にお捧げするのです。月に一度、一日かもしれません。三ヶ月に一回、一泊二日かもしれません。一年に一度、一週間かもしれません。その時間に何が達成されるかは私たちが決めることではありません。主は私たちに休息を与えようとしておられるかもしれないし、私たちに気づかせたいこと、語りたいことがおありかもしれません。あるいは、リトリートに出かけたものの、特にこれといったことは起こらないかもしれません。それでも、捧げ続けるところに意味があります。マルホーランドはさらに言います。
ある朝あなたは目覚め、しばしば驚きを持って気づくでしょう。その修練はもはや修練ではなくなっていることに。今や、キリストにある新しいいのちへとよみがえらされたあなたという存在から、自然と溢れ出すものに変えられていることに気づくのです。キリスト・イエスを死者の中からよみがえらされたお方の霊、そしてあなたの内にも住んでおられる霊が、あなたの死んだからだをも生き返らせたのです。あなたが行ったのではありません。神がなさったのです。しかし神は、あなたが捧げた修練を通してそれをなさったのです。
修練のつもりで行っていたことが、いつの間にか自分にとっての自然なリズムとなる…… そして神は、それを用いて私たちの中に神が願われる変容をもたらしてくださるのです。
イザヤ書にはこうあります。「『立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたはこれを望まなかった」(30:15)。イスラエルの民は、神に頼らず、神の指示を仰ぐこともなく、自らの考えによってエジプトに下ってファラオの保護のもとに身を寄せようとしました。しかし主は言われました。「エジプトの助けは空しく、当てにならない」(7節)。私たちはどうでしょうか。神のもとに立ち返る代わりに、どこか別の場所に駆け込み、自分で物事をなそうとしていないでしょうか。私たちも「救われる」必要がないでしょうか。
ルース・ヘイリー・バートンは言います。「私は毎日救われる必要があります。この世の文化や悪の力から、そして何より、自分自身から。自分自身の忙しさやそこからくる疲労、自信過剰や尊大さ、むさぼりや支配欲や飽くことなき達成欲、そして神と向き合うことを怠るとたちまち私に襲いかかる怒りや苦味や不信感から。」
しかし主は、「あなたがたに恵みを与えようとして待」っておられます(18節)。立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われる、と言われるのです。もちろん、リトリートに行くだけが「立ち返って落ち着き、静かにして信頼する」ための唯一の方法ではありません。そうするために良い方法をあなたがすでに持っているなら、ぜひその方法を続けてください。でも、もしも定期的に落ち着いて静かにすることに困難を覚え、自分を圧迫するものから「救われ」る必要を覚えているなら、霊的修練としてのリトリート(戦略的撤退)を試してみてはいかがでしょうか。この忙しく落ち着きのない世の中で、神が与えてくださるリズムで生きることができたら……それは私の個人的な祈りでもあります。
私を鎮めてください
聖なる方よ。
歯を食いしばり続けることから解き放ち
深呼吸させてください。
私を縛るさまざまな期待から
体が震えるような不安から
絶対的な確信から
この手を放させてください。
静けさによって和らぎ
光に取り囲まれ
神秘に向かって心が開かれるとき
完全なものが私を見出し
測り知れないものが私を支え
シンプルなものが私を魅了し
喜びが私を満たすでしょう。
つまり、あなたが。
『舟の右側』2021年5月号掲載