見出し画像

主とともに退く(1)イエスの誘い

みなさんは「リトリート」と聞くと何を思い浮かべますか? リトリートに参加したことはありますか? それはどういうリトリートでしたか?

私が初めて「リトリート」と呼ばれるものに出会ったのは大学に入学したときでした。新入生のための泊りがけのオリエンテーションが学外の施設であり、それが「新入生リトリート」と呼ばれていました。その後も心理学科のリトリート、教会の女性リトリート、夫婦リトリート、役員リトリートなどに参加する機会がありました。

これらに共通していたのは、キャンプ場やリゾートホテルなど、普段の生活の場とは異なる場所に泊まりがけで出かけ、参加者同士の親睦を深めつつ、研修、慰安、年間計画を立てる会議など、そのリトリートの目的である活動を集中的に行うことでした。

近年では、心身のリセット、癒し、保養、自分探しなど、セルフケアのためのリトリートが注目を集めています。この場合、ヨガや瞑想、自然とのふれ合いなどが組み込まれることが多いようです。
 
このようにリトリートにはさまざまな目的やスタイルがありますが、「リトリート(retreat)」とは本来、「後退」「撤退」「退却」を意味します。戦場で劣勢になったとき、進撃を止め、形勢を整えるためにいったん戦略的に撤退することを指す軍事用語だったそうです。それが転じて、今日ではセルフケアや何らかの活動を集中的に行うための合宿や集会を指すようになりました。
 
後退の意味でのリトリートは、実は聖書の中にも見られます。たとえばマルコの福音書6章には、十二人の弟子たちが二人ずつ遣わされ、悔い改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大勢の病人を癒し、それからイエスのところに戻って自分たちの活動を逐一報告したときのことが記されています。

さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。

(マルコ6章30、31節)

イエスの御名によって自分たちが成し遂げた働きに、弟子たちはおそらく大きな喜びや満足を覚えたことでしょう。我先にとイエスに活動報告をする様子が目に浮かぶようです。そんな弟子たちにイエスは、「あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」と言われました。マルコは、大勢の人が出入りして、食事する時間さえなかったからだと説明します。今はまだ興奮冷めやらぬ弟子たちでしたが、実際は疲労していることをイエスはご存じだったのでしょう。
 
「あなたがただけで」とありますが、続く節にはイエスも弟子たちともに舟に乗って寂しいところへ出かけたことが記されていますので、弟子たちだけで行きなさいとおっしゃったわけではなかったようです。むしろ、「群衆から離れて、わたしたちだけで静かなところへ行こう」と言われたのです。これはまさしく「一緒にリトリート(退却)しよう」ということです。なんと魅力的なお誘いでしょうか! 

みなさんは、自分の敬愛する親しい人から、「ほかの人たちはここに残して、わたしたちだけで食事に行きましょう」と誘われたら、どうしますか?「いいえ、結構です」と断りますか? それとも、喜んでついていきますか? イエスと弟子たちのこの情景を想像し、しばらく思いを巡らせてみてください。その中にあなたの姿は見えますか? 

何か大きな働きを達成したとき、心地よい疲れを覚えつつ、感謝と喜びを持って主に報告する。あるいは、群衆が押し寄せるように、息つく間もなくやってくる緊急の対応や決断が必要な案件に追われる。立ち止まりたくても立ち止まれず、食事や睡眠をとることすらままならない…… そういう経験は、みなさんにもあるのではないでしょうか。そんなときイエスが、「わたしたちだけで静かなところへ行って、一緒に休息しよう、一緒にリトリートしよう」と誘ってくださるとしたら、どうでしょうか。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。

(マタイ11章28節)

これは、今日私たちにも差し出されているイエスからの招きです。イエスは私たちのニーズや限界をご存知なので、このように私たちを招いてくださるのです。主が私たちに差し出してくださるものは、いつでも招きの形でやってきます(マタイ22・2―3)。それを受け取るのも遠慮するのも私たちの自由です。その招きに、私たちはどう応答したいでしょうか。それが本連載のテーマです。

本連載では、ルース・ヘイリー・バートン著『Invitation to Retreatリトリートへの招き』(IVPress, 2018)を主な参考文献としつつ、霊的実践としてのリトリートについて考慮します。そういうリトリートを、「自分の注意をただ神だけに向け、神とともにたっぷり時間を過ごすために、まとまった時間をとって日常生活から退くこと」(バートン、前掲書)、「神の御前で安らぎ、神の御声に静かに耳を傾け、心身をリフレッシュし、自らを整え直すために、定期的に日常生活から一定期間退くという霊的実践」(アデル・カルフーン『Spiritual Disciplines Handbook霊的修練ハンドブック』IVPress, 2005)と定義し、私たちの霊的歩みの中に取り戻すことを試みたいと思います。読者のみなさんが実際にリトリートを計画できるよう、リトリートでは何をするのか等、具体的な側面からも検討していきます。

日常生活や日々の働きからしばらくの期間退くというのは(それが二四時間であれ、一週間であれ)、今日の社会ではなかなか容易ではありません。現代の私たちは、電子メールを一日チェックしないでいることにさえ困難を覚えるものです。退くことに対して、さまざまな内的・外的抵抗があるでしょう。リトリートなんて、時間や経済的ゆとりのある人だけができる贅沢だと思うかもしれません。自分がいなくなったら、家庭が、仕事が、教会がまわらなくなる、それは大げさではない現実かもしれません。それでも、イエスとともに退きたいという切望を心の奥に感じませんか? それは「わたしたちだけで静かなところへ行こう」というイエスからの招きです。思い切ってその招きに応えてみませんか? 本連載がその助けとなることを祈ります。

『舟の右側』2020年6月号掲載

いいなと思ったら応援しよう!