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Ⅱ章 彼女の場合⑧

 私は走った。
コートの出入り口を抜け、控室の扉を開いた。
そこに彼の姿はなく、荷物も無くなっていた。

――――いったい、どこに行ったのよ!?

コートがある地下1階にいないと判断して階段を駆け上がった。
館内の真ん中に配置された大きな階段を上がり、振り向いて全体を見渡す。観客席から遠く離れたところに座っている夏希の後ろ姿が見えた。

 彼女なら何か知っているかもしれない。
私は階段を挟んだ向こう側、日差しの入り込む窓際に座っている夏希の元へ向かった。

角を曲がり、彼女の姿がハッキリと見えたときだった。
夏希の膝を前に跪き、縋るようにして泣く亮二の姿があった。

――――自信家でお調子者。それでいて試合に出れば、必殺技のスリーポイントシュートでチームを勝たせるみんなのヒーロー。

 そんな自分の理想が崩れた瞬間だった。
全部が私の憧れで、全部が私の妄想で、全部が私の嘘だった。

私は避難するように柱の陰に隠れて息を潜めた。
そして、ゆっくりと夏希の顔を覗いて確認した。彼女は動揺することなく、彼に寄り添うように抱きしめて背中を、トン、トン、と叩いていた。

 夏希は全部を知っていたのだ。
自信家が脆いことを。いずれこうなることを。
そして何より、その時に自分が支えなければならないことを……。

 私は遅過ぎた。
チームの皆が自分より現実に向き合っていたこと。
先生が皆と同じように私を見てくれていたこと。
夏希が私よりずっと亮二を愛していたこと。
亮二に必要だったのは、彼女だったこと。


――――そして、私が彼をこんなにも好きだったこと。


 私は知るのが遅過ぎた。
この気持ちは、気が付いてからではもう遅い。
それを理解してしまったから余計に涙が止まらない。
力が入らなくなった脚は、壁を頼りに重力に従って落ちるしかなかった。
そうしてしゃがんだまま、私は両手で声を押し殺して泣いた。


――――こうして私の冬は終わりを迎えた。


 結局、由比ヶ浜高校は負けた。
交代した2年の喜多村、慧の2人が純のマークを外すことに成功して追い上げる展開になったが、健闘空しくあと一歩が届かなかった。

最終クォーター
  由比ヶ浜高校 68 ―― 青応大附属高校 75

 私が控室に戻ったとき、彼らは淡々と撤収の準備を始めていた。
その中で亮二のように泣く者は、誰ひとりいなかった。

「お、舞衣。お疲れ」と言って、こちらを見上げたのは慧だった。

「いやーシンドかった。黒人の相手したり、化け物相手にしたり……キツ過ぎたわ」
「慧、悪かった。俺一人じゃ、あの外人は無理だった」

「お前が悪いわけじゃねぇよ。どう考えたって反則だろ、あんなの」
「そうだよなぁ……」

「そうだよ。やるだけやったじゃねぇか。あーすればとか、こうすればとか――――ないだろ?」

 あぁ、と言葉を重ねたのは、ハルだった。

「僕たちは負けた。全力でここまで来て、全力で戦って負けたんだ。ここまで力を合わせてきたこと。言い訳しないで努力し続けたこと。誠実にバスケと向き合ったこと。そのひとつひとつを出し切った。後悔なんてない。これ以上ない終わり方だったと思う」

「……その通りです。君たちは、やれる限りの事をやりました。真摯に向き合ってきた。だからこの舞台に辿り着いた。スポーツ推薦のない高校が予選の決勝まで勝ち上がった。この快挙を笑う者などいないでしょう。……本当にお疲れさまでした」

 最後に、と言って監督が続ける。

「君たちが努力した3年間。駆け抜けた「今」はいずれ過去になります。努力して負けたという事実。ここで得た経験や考え方は、今後も財産になるでしょう。ただ、それは同時に呪縛にもなり得ます。過去を活かすのも殺すのも貴方たち次第です。私は、この3年間が君たちにとって、大きな財産であって欲しい。それが私からの最後の言葉です。お疲れさまでした」



 チームが解散すると、それぞれが進路に向けて散り散りになった。
見計らったかのように教室の机の上に赤い本が置かれるようになった。
次第にすべての机が朱くなっていく様は、紅葉を連想させた。
若葉だった私たちは、赤く染まって新たな地に向かって芽吹く準備を始めた。

 そんな中、私は数年ぶりに訪れた自分の時間を持て余した。
部活中心の生活が終わることを願っていたのに、高校生活が終わることは想像していなかった。

 やりたいことが見つからない。
 とりあえず、大学は出た方が良いか……。


そう思って、模試の成績から手が届きそうな大学をいくつか選んだ。
失恋の気持ちを覆うように机を染めて、問題集を睨む日々を送った。

 2月末、私はなんとか第3志望の大学に受かった。
最初は受かった喜びより、なんとか自分も周りに置いて行かれることなく、4月を迎える事が出来て、ホッとした気持ちの方が強かった。

 落ち着く暇もなく、卒業式が近付いていた。
部活の引退式以来、ハル達と顔を合わせることはあっても話すことはなかった。亮二は引退式にいなかったから、もっとずっと話していない。


――――このまま話さずに卒業するの嫌だな……。

 教室から窓を見る。
受験が終わった学生は自習の教室だとやることがない。
別に毎日来る必要もないが、偶然が起きないか期待して登校してしまう。

 次第に私は校庭や校門が一望出来る席に座って、読みもしない単語帳やノートを開き、頬杖をついたまま夕方まで見下ろすことが日課になっていた。

 自分の行いがくだらないことだと解っている。けれど、日を追うごとに残りの時間を期待に費やして、高校生活を終わらせるのも悪くない。

 そう考え始めた頃、登校してきた私に夏希が声を掛けてきた。
午前7時30分。まだほとんどの生徒が登校していない早朝だった。

「おはよう」
「お。夏希、おはよう」

「今日もその席なんだね」
「あぁ、うん。この席さ。生徒がよく見えるんだ」

 そうなんだ、と言ってから、夏希が深く深呼吸するのがわかった。

「今日、亮二来てるよ」


 えっ、思考より先に言葉が出ていた。

「いつも舞衣がその席を選ぶのは、亮二を探していたからだよね?」

 そう言った彼女の視線は、私を正面からしっかりと捉えていた。
 なんで、と返すより早く、彼女は言葉を続けた。

「わかるよ、そんなの。舞衣の視線はずっと亮二を追ってたから」
「そっか……。自分で気づいたのは最近だったんだけどなぁ……」

 少しの間が開いた。
窓際の席に座る私。教室の入り口に立つ彼女。
陽の差し込む窓辺から見た入り口は、暗闇にいる夏希の白い肌と輪郭の一部を照らして、その存在をより一層恐ろしく感じさせた。

「……亮二。今、体育館にいるよ」

 均衡を破ったのは、やはり夏希だった。


「ちゃんと行ってきなよ。3年間続けられたのは、その気持ちがあったからでしょ。それで彼が舞衣を選んでも責めたりしない。そう決めたから」

 私は夏希が嫌いだった。
彼が私を見なくなったのは、彼女の所為だと思っていた。
私にとって絶対に勝てない存在になった「あの日」。
私の中では既に彼女との戦いは終わっていた。

――――この気持ちを手放すのは惜しい。
そう思う一方で、ハルや慧たちの顔が浮かんだ。
彼らは後悔なく終わった。私はどうだろう。

「……いいの?」

「うん。ちゃんと想い伝えてきなよ」

わかった、と言って、入口ですれ違ってから数歩歩いて言い忘れていたことを思い出した。

「夏希。私さ。アンタのこと嫌いだった。子供みたいに嫉妬してた。ごめん」
「うん、知ってた」


「そっか。悔しいけどさ。……アンタ、イイ女だよ」


 ゆっくりと体育館へ向かう。
朝練の後に急いで駆け上がった階段。
昼休みや放課後によく皆で通った売店。
季節の移り変わりを教えてくれた体育館までの廊下。
ランニングや練習が終わった彼らが水浴びに使っていた校庭の水飲み場。

――――そして、私たちの3年間が詰まった体育館。


 ゴールを眺めながら、ダン、ダンと地面から跳ね上がるボールの感触を確かめ右へ、左へと歩き回る彼がいた。

「久しぶり」
「なんだ、舞衣か。久しぶり」

なんだとは何よ、とは言ったが、この空気が懐かしい。
こちらを振り向いたかと思えば、またゴールの方へ身体を向ける。

「他の奴だったら気まずいと思ってさ。ほら、引退式も出なかっただろ?」
「そう思うなら来ればよかったじゃん」

「……無茶言うなよ。そういやお前は進路決まった?」
「決まった決まった。都内の大学に進学するよ。アンタは?」

「俺も大学決まったよ。一般だったから大変だったわ」
「スポーツ推薦は?来てたんじゃないの?」

「その話は断ったんだ。もう真面目にバスケする気なくてさ」
「……あれだけ練習したのに?」

「……あぁ、もう良いんだ」
「いいの?」

「あんな様で終わったんだぜ?途中で投げ出して、それでスポーツ推薦とかあり得ないだろ?それに……」
「それに……?」

「あいつ等の方が良いとこから声掛かってたんだぜ?こっちは関東リーグ4部だってのに……。慧は3部の専習院、ハルは2部の明邦大だってさ。隆は俺と同じ4部リーグだったらしいけどさ。俺、隆と一緒かよ」
「隆だって一生懸命頑張ってたよ。アンタだって知ってるでしょ?」

「まぁ……そうだけどさ。一番びっくりしたのは純だよ」

「あぁ……。青応だっけ?」
「よりによって、自分たちが負けたところだぜ?神経疑うわ」

 純が青応から声が掛かった話は知っていた。
試合後、青応の藤沢監督が嶋先生に直接話を持ち掛けたそうだ。

青応を追い詰めた純の才能は、関東リーグの強豪から注目された。
これに困ったのは、嶋先生だった。
純の才能が潰れてしまわない進路を彼に与えたかった。

そんな折、青応の藤沢監督からオファーがあった。
彼は、由比ヶ浜高校のOBで嶋先生の教え子だった。
彼ならば、と嶋先生が話し合いの場を設け、純の青応入りが決まった。

「裏切られた気分だぜ、全く」
そう言いながら、彼は歩みを止めた。
気ままに弾んでは左右の手に治まる球は、辿り着く場所が見えないでいる。

「先生がちゃんと話し合って、純のために決めたみたいよ」
「そうだとしてもさ……。納得いかねぇよ」

 彼はゴールの方を再び見上げた。

「結局、スポーツ推薦で進学するのは純だけなんだぜ?ハルは難病患ってる彼女のために医学部志望で来年受験。慧は数学者になりたくて進学。隆は実家の料亭継ぐために調理師学校だろ。俺も俺で結局、何がやりたいかわからないまま一般で経営学科だしなぁ……」


「俺には、この3年間に何の意味があったのかわからねぇよ」



 ぽつり、と零れた彼の本音が胸を締め付けた。
 ――――ここしかない。

「私には意味があったよ」


 へぇ、と言いながら、その言葉の先を待つ彼に続けた。

「ひとつの事に一生懸命になれた。3年間、あいつ等と一緒頑張ってこれた。なにより……」



「大好きなアンタの頑張るところを間近で3年間見れた」


 思わぬ言葉だったのだろう。こちらを振り向いた。
やっと顔を見てくれた。いつ以来だろう。もっと早くこうしていれば、良かったのか。

「私さ、アンタのこと好きだったわ」

 彼は、ボールを両手で持ち、少し考えてから言葉を選ぶように話し始めた。

「そっか……。なんつーか、あれだな。俺はいつも自分しか見えてなかったんだな。チームの事もお前の事も。ずっとお構いなしに自分が主役なんだと思い込んでた。気が付く時にはいつも遅いな……」


バカだな、俺……、そう言いながら、彼は振り返ってゴールの方を向いた。


「悪い。俺には夏希がいるから。お前の気持ちには応えられない」

「わかってるよ。夏希のこと、大切にね」
――――涙を溜めて言える、精いっぱいの言葉だった。


じゃあ、と言って、私はコートから出た。
出る時、ボールがゴールに当たる音が何度かした。
けれど、その音の中でネットから落ちる音は一回も聴こえなかった。


歩きながら、私は何度も涙を拭った。

――――悔いがないなんて嘘だ。後悔ばかりじゃないか。

本当に後悔ばかりが頭を過る。
フラれた直後だからか、それとも真実だからか分からない。



私は気持ちが治まるまで水飲み場に座って、校舎を見上げていた。

荷物は教室。
持ち物は全部カバンの中だったはず。
まだ人はそんなに来ていない。
――――もう見下ろす必要はなくなった。


はぁ……





「あーー終わっちゃった」
長い季節を共にした皆が新たな世界に胸を躍らせ、それぞれの種が春を芽吹かせる中、私の恋が芽吹くことはなかった。




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