私たちは毎日死んで、毎日生き返ります。
私の母は、三途の川まで行って帰ってきたと言います。川向うには綺麗なお花畑が広がっていて、渡りたかったけど、橋がなくて行けなかったそうです。しかたがなく引き返したら、生き返ったという体験を話してくれました。
このような経験をした話はまれに聞きます。もっとレアなケースでは、葬儀中に生き返ったという話もあるそうです。しかし一般的には、一度死ぬと生き返ることはありません。
悲劇は一瞬にして起こる
正月の能登半島の地震や、日航機の事故を見ると、生きた心地がしないと思ったのは私だけではないと思います。
私たちは日々のニュースの中で、生死を考えさせられる事件・事故は日常茶飯事に起こっています。渋谷の刃物振り回し事件だってそうです。「もし自分がその場にいたとしたら」と、考えるだけでゾッとします。
想像してみてください。体験と想像はまったく違います。しかし、何度も想像しているうちに、あたかも体験したかのように感じる時がやってくるかもしれません。
死の瞑想は、死の疑似体験。
私は交通事故に遭ったことがあります。バイクで直進中、横から突然車が飛び出してきて、衝突して私の体は道路に叩きつけられました。
衝突の衝撃で、体が宙を舞ったことは覚えています。体がふわ〜っと軽くなって、空が見え、超スローモーションで景色が動いていました。その後、気を失い、気が付いた時は、病院のベッドの上です。
一瞬で気を失ったけど、目が覚めたから生きているわけです。あの瞬間、もし死んでいたら、目が覚めなかっただけです。そのもしもの時って、どんな感覚だろうと想像してみました。
おそらくそれが一昨日紹介しました「死の瞑想」なのかもしれません。だとしたら、私は身を持って体感したことになります。それ以来、何度でも同じ瞑想ゾーンに入ることができるようになりました。
眠るという行為は、死の瞑想に近いと私は思います。
眠りは、気を失った状態に似ています。意識がなくなっているという意味では同じです。意識がないということは、事故で意識がなくなったのと似ています。だからこういう言い方もできるはずです
私たちは毎日死んで、毎日生き返ります。
眠りと捉えず、死と捉えると、朝、目覚めた時の意味がずいぶん変わります。目が開いた瞬間「生きている嬉しさ」を感じるようになります。毎日死を感じながら眠り、生を感じて目覚めると、一日の有難みが変わってくると思います。
晩年になると、残された時間は僅かです。その命がいつ終わるか誰も分かりません。今日生きたことを感謝しながら、毎日死んでいきましょう。明日の朝、目覚めたとしたら、それはラッキーなことです。