現代版・徒然草【29】(第13段・読書)
今の時代は、多くの本が書店や図書館に溢れかえっている時代である。
兼好法師が生きていた時代から700年も経っているが、700年前は、書物を読める人は、貴族などの知識人に限られていた。
一般庶民の識字率なんて、かなり低かったのである。明治時代に広く国民教育が行われるようになってから、まだ150年しか経っていない。
そうすると、鎌倉時代から室町時代にかけて生きた兼好法師や、平安時代の清少納言や紫式部は、かなり学識が高かったといえよう。
そんな人たちが日頃読んでいた書物について、第13段で紹介されている。
では、読んでみよう。
ひとり、燈(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文(ふみ)は、文選(もんぜん)のあはれなる巻々、白氏文集(はくしもんじゅう)、老子のことば、南華(なんか)の篇。この国の博士(はかせ)どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。
以上である。
読書は一人でするものだが、ろうそくの火のもとで、書物を広げて、かつての文筆家(=見ぬ世の人)を心の友とするのは、慰みになると言っている。
その次の文では、具体的に、『文選』(もんぜん)、『白氏文集』(はくしもんじゅう)、『老子』(ろうし)、『南華真経』(なんかしんぎょう)という書物の名が挙げられているが、すべて中国の古典であり、今で言うならば、漢詩や漢文のことを指す。
中国の文章博士が書いたものは、古来のものは趣深いものが多いと言っている。
ちなみに、清少納言が書いた『枕草子』の第197段でも、「文は、文集。文選では………」という書き出しが見られる。
そういった先人が愛読した中国の古典を、現代の私たちも、中高生のときに学校の古文・漢文の授業で習うのだが、正直言ってチンプンカンプンであろう。
白氏文集というのは、唐の有名な詩人である白居易(はくきょい)が書いたものであるが、1200年前の書物である。
また、老子は紀元前6世紀(=2600年前)に生きた人物であり、『南華真経』の荘子も紀元前4〜3世紀に生きた人物である。
日本では、縄文時代から弥生時代の遠い昔にあたるわけだから、気が遠くなりそうである。
だが、活字離れが進んでいる現代、日常生活でなじみのある事柄さえも、漢字で書けない、文章でうまく表現できない人が増えてきているのは、深刻な事態なのかもしれないのだ。
そういう意味では、読書は大切である。