歴史をたどるー小国の宿命(94)
後村上天皇は、父の跡を継いで、11才のときに第97代の天皇となった。
後醍醐天皇が第96代であったので、北朝の光厳天皇や光明天皇をすっ飛ばして、次代の天皇ということになるのだが、実は、この歴代天皇の順番が決まったのは明治44年のことであり、明治政府が決めたのである。
明治時代のこの決定によって、北朝の天皇は、カウントされなかった。
ともかく、後醍醐天皇が主張していた、南朝の大覚寺統こそ正統の天皇であるというのは、1911年になって認定されたので、およそ600年近くの年月がかかったのである。
後村上天皇は、父の遺志を受け継ぎ、1368年に40才で亡くなるまで在位していた。
一方、楠木正成や新田義貞、後醍醐天皇が亡くなったあともまだ健在であった足利尊氏は、光明天皇とともに、南朝の勢力と引き続き戦っていた。
ところが、後醍醐天皇が亡くなったことで、政権内部の力関係が微妙に変化し、尊氏の弟の直義と、尊氏の側近であった高師直(こうのもろなお)らの間で、派閥争いが起こっていた。
すなわち、足利氏一門の内紛である。
1340年代に、この内紛はたびたび勃発し、とうとう尊氏の弟の直義は、南朝方に帰順したのである。
1350年、自分の弟が南朝方に帰順したことに衝撃を受けた尊氏であるが、側近の高師直らとともに戦うことになる。
この年が観応元年だったことから、この争いは「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)と呼ばれた。
1年半に及ぶ戦いの結果、高師直ら一族は滅亡した。つまり、南朝方に付いた直義が勝ったのである。
さて、弟の勝利を見届けた尊氏は、このあとどうしたであろうか。
続きは、明日である。