【書評】ダシール・ハメット『ガラスの鍵』は禅的作品。あえて書かないことで書く。
ロッシーです。
ダシール・ハメットの『ガラスの鍵』を再読しました。
以前、ダシール・ハメット『血の収穫』の記事を書きました。
ダシール・ハメットといえば、ハードボイルド小説の文体を確立した元祖として有名です。
長編小説は、生涯で5作しか遺さなかったのですが、本人が最もお気に入りだったのがこの『ガラスの鍵』だったそうです。
しかし、だからといって分かりやすくとっつきやすい作品ではありません。
ハメットの文体の特徴は、内面の描写がないという点ですが、この『ガラスの鍵』ではそれが頂点を極めていると思います。
さて、内面の描写がないというのはどういうことか?
普通の小説であれば、こんな風に書きます。↓
「私はA氏を訪問しようと考えた。彼なら何か手がかりを知っているはずだ。もし彼が何も知らなくても、それはそれでしかたがない。」
まあ、普通ですよね。登場人物の内面を描写しているわけです。
しかし、『ガラスの鍵』的には、そういう描写はこうなります。↓
「次の日、ネッド・ボーモントはA氏の家に向かった。」
これだけです。「私は~」という描写もしません。主人公なのに、ネッド・ボーモントとしか表記しません。一人称による視点も徹底的に排除しています。他の登場人物も全て同様です。
そのような文体ですから、登場人物の内面は、表情、しぐさ、身振りといった行動を手掛かりとして読み取るしかないのです。そういう意味では、この作品は非常に映像的だといえるのかもしれません。
このように内面を描写しない手法は、小説における最大の武器を自ら捨てるに等しいものです。
小説という表現手法は、登場人物に自分の内面を語らせるのに最も適しています。ドストエフスキーの『地下室の手記』のように、登場人物が内心で考えていることをつらつらと描写することは、まさに小説だからできることです。これと同じことを映画でやってしまうと、尺が間延びしてしまいますし、映像を観客に魅せようとする意図からも外れてしまいます。
つまり、ハメットは自分の両手を縛ってボクシングをするようなことをしているわけです。
そのような文体ですし、ストーリーもいわゆるバイオレンスやアクション要素は少ないです。では、この作品がつまらないのか?というと、そんなことはありません。
むしろ、内面の描写がないがゆえに、読者がそれを読み解くという面白さが際立ってくるのです。
ただ、このような離れ業を成立させられるのは、ハメットの技量があってこそだと思います。
凡庸な書き手であれば、「内面が描けてない」と言われてしまうでしょう。
そういう意味では非常に面白い作品ですので一読をおすすめしますが、初回の読書が一番面白くないと思います。
つまり、2回目、3回目と再読することで、より面白くなっていくわけです。
なぜなら、再読することで読み手側の力量が上がり、登場人物の内面をより深く豊かに解釈することができるようになるからです。
つまり、この作品を読むにあたっては、読み手側の力量も問われることになるのです。
「あなたは凡庸な読み手なのか、そうではないのか?」
と問いかけてくるのです。
あえて内面描写を省くことで、稀有な小説として成立しているこの作品には、なにやら禅的なものを感じます。カラーを排したモノクロの水墨画が、豊かな色調を感じさせるがごとく。
好き嫌いが分かれる小説だと思いますが、気になる方はぜひ一度読んでみてください。個人的には、いわゆるハードボイルド小説ではないと思っています。私もまたいつか読み返すつもりです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!