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【書評】夏目漱石の『こころ』は先生から未来のあなたへのメッセージ
ロッシーです。
最近、すっかり夏目漱石がマイブームになっています。
今回は、『こころ』を読みました。
以前、『明暗』について、
私の中で夏目漱石作品ランキング1位となりました! ちなみに、2位は『行人』、3位は『こころ』です。
と書きました。
しかし、あらためて『こころ』を読み直したところ、
「やっぱり『こころ』はいいわ~。最高!」
となりました(笑)。
『こころ』は、読んでいて退屈しないんですよね。間延びした部分がないと言いますか。
『明暗』がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だとしたら、『こころ』は『罪と罰』ですね。分かります?この例え。
で、私は『罪と罰』がドストエフスキー作品の中で一番好きなので、夏目漱石も『こころ』が一番好きなのです。
と話が脱線しましたが、なぜ『こころ』という作品が、かくも長いこと日本人の心を惹きつけてやまないのでしょう?
その大きな理由として、最初の「先生と私」で沢山の「謎」が提示されるからなのだと思います。
「なぜ先生はこういうことを言うのだろう?」
「先生はどういう人物なのだろう?」
「過去に何があったのだろう」
そういう疑問が湧き上がってくるのを読者は押さえることができません。そして、その謎を知りたい!解明したい!という欲望が亢進されるわけです。そう、そしてそれは作品の語り手である「私」とまさに同じ状態なのです。
その後読み進めていくと、「先生と遺書」において、それまで謎だった部分が「そうだったのか!」と明かされることで、読者はカタルシスを得る。そういう構造になっているのだと思います。
ただ、それだけならば、似たような小説は他にも山ほどあるでしょう。でも『こころ』の場合、「そうだったのか!」と納得はするのですが、その後よくよく考えると、「あれ?本当にそういうことなのか?」と思わずにはいられなくなる点が異なります。
つまり、一瞬分かったような気になるのですが、結局良く分からないことに気がつくのです。
例えば先生が死んだ理由について、遺書を読見終わると、
「そうか、Kの自殺に対する罪の意識で先生は自殺したのか。」
と思うのですが、その後よくよく考え始めると、「本当にそうなのだろうか?それだけが原因なのだろうか?」と思わずにはいられなくなります。
おそらく、この作品の語り手である「私」も同様でしょう。『こころ』は、先生の遺書の終わり=作品の終わりとなっており、その後「私」がどのように考え、行動したのか一切書かれておらず、読者が想像するしかありません。
しかし、おそらく「私」も、先生の死についてきちんと理解することはできないように思うのです(私の思い込みかもしれませんが)。
夏目漱石は、「先生と遺書」で作品を終わらせることを決めた時点で、あえてそのように宙ぶらりんなかたちにすることにしたのではないかと想像します。
なぜか?
それは、そのほうが「教育的効果が高いから」だと思うのです。謎というものは、それを解明しようとする者の知的レベルを向上させるからです。
では、なぜ教育的効果を高くしようとしたのか?時代背景も含め、色々と思うところを書いてみます。
当時、明治という時代が終わり、大正という新しい時代に移る中で、日本人は西洋という概念にこれまで以上に対峙し、その精神を無理やりにでも消化せざるを得ない状況でした。大正デモクラシー、第一次世界大戦など歴史の授業で学んだと思います。
今後の行先がどうなるのかも分からない、まさにVUCA状態です。そんな状況で、「これが答えだよ」という確固としたものを提示することなんて誰にもできません。
でも、文学者として夏目漱石は未来を担う人達に何かを提示しようとしたはずです。単に面白い文学作品を書いて、それでOKと思ったとは考えにくい。
当時のあらゆる分野における第一人者は、単に有名になろうとか、リッチになろうとか、そんなことよりももっと大事なことがあったと思うからです。それは、
「日本という国家の未来に役立つことをする」
ことであり、それは夏目漱石も同じだったと思うのです。国というものを自分の両肩にのせて、常にそれを意識しつつ、文学によって一体何ができるのかを考えたはずです。現代の成功者と言われている人達と、当時の人達とは、気構えや志が全く異なっていたと私は思います。
そして、漱石が『こころ』という文学作品で伝えたかったことは、
「先がどうなるかは分からないし、確固とした答えなんて分からない。だから答えをあたかも正解のように提示することはできない。私にもそんな自信はない(そう、まるで「先生」のように)。でも、そういう良く分からないもの、謎めいたものに対して、自分の知のレベルを上げて理解しよう、学ぼう、と全力で向かっていくこと、それができればきっと未来はなんとかなるよ。大丈夫だよ。」
ということなのではないかと勝手に推察するのです。
登場人物の「私」は、先生にこう言います。
「ただまじめなんです。まじめに人生から教訓を受けたいのです。」
「私」は、先生という「謎」から全身全霊で学ぼうとします。そして、先生はその後の遺書でこう答えます。
「私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたはまじめだから。あなたはまじめに人生そのものから生きた教訓を得たいと言ったから。」
先生と「私」との、この時間を置いたやりとりに改めて感動しました。本気でぶつかってきた「私」に対して、先生も本気で命をかけて遺書を残したのです。
「私」がそこから何を学んだのか、それは些細なことのように思います。大事なのは学ぶ姿勢そのものだからです。だから、夏目漱石は、「先生」の遺書のあとに物語を書く必要はないと思ったのでしょう。
一方で、先生の遺書に書かれた内容の解釈も、同様に些細なことだと思います(夏目文学研究者の方には失礼ですが)。
それよりも、もっともっと大事なことは、「私」に対しての先生の気持ち、まさに「こころ」ではないでしょうか。
あれだけの分量の遺書を、ひとりの青年に書いたということは、もっと重視されてもいいと私は思います。それだけの文書を書くという行為自体が、先生から「私」、すなわち未来を担う青年に対する熱い想い、真摯なメッセージでなくて一体何なのでしょう。
『こころ』が長い間読み続けられている理由は、それだと私は思うのです。『こころ』の読者は「私」となり、先生からの想いを受け取るのであり、この構造自体が魅力的なのです。
先生は遺書でこう書いています。
「私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけてあげます。しかし恐れてはいけません。暗いものをじっと見つめて、そのなかからあなたの参考になるものをおつかみなさい。」
私は、この書評を書いていて、この作品が、非常に教育的な内容になっていることに気が付きました。先生は、まさに先生として読者に対して教育的役割を果たしているのです。「自分から何かを学んでくれ」と。
そして、その教育的な内容は、何を書いているかどうかではなく、多量の言葉を尽くして何かを真摯に伝えようとする先生の行為そのものであることにも気が付きました。
もちろん、『こころ』は色々な読み方ができる作品ですから、私の読み方が正しいわけではありません。あくまでも私の解釈です。
そして、私の解釈ては、先生は最期自殺したときに自分が不幸だと思って死んだわけではないと思います。
なぜなら、自分(先生)という存在から何かを受け取って、そして生きてくれる存在(私)がいるから。
そう、『こころ』は次世代に向けた希望の書なのです。先生から次世代へ託されたメッセージなのです。私は勝手にそう思っています。
夏目漱石と聞くと、何やら近代における内面の苦しさを描いた・・・みたいな難しい捉え方をされがちです。
でも、もし自分自身が当時の文学者だったとしたら、どういうものを書くでしょうか。きっと、それを読んだ人に希望を与える、そんな物語を書きたいと思ったはずです。『こころ』だけではなく、彼のどの作品にも、そこには希望というものがしっかりと埋め込まれているように私は思うのです。
私はまたいつか『こころ』を読み返すでしょう。読んだことがある人も、もう一度読んでみてください。
先生からあなたへのメッセージは、いつでもアクセス可能です。
やはり『こころ』は最高です。
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!