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朝聞夕死...朝に人としての真実の道を聞いて悟ることができれば…
子曰(のたま)わく、朝(あした)に道を聞けば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり。(里仁第四、仮名論語四一頁)
先師(孔子)が言われた。
「朝に人としての真実の道を聞いて悟ることができれば、夕方に死んでも悔いはない」
コロナ禍の昨年一月、一処不住の禅僧が亡くなった。
村上光照老師、八十七歳であった。
戦争で父を亡くしたが、
名古屋大学理学部へ進み理論物理学の道を択んだ。
その後、京都大学大学院の
ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士の下で
素粒子論を学んだ。
在学中に名僧澤木興道老師に出会ったのが
機縁となり、
自ら「学問はいつでもできる。
まずもって生死の問題を明らめねばならない」
と、研究者の道を捨て仏道修行を取った。
当会の古くからの畏友である東京在住のH氏は、
昭和五十年頃であったか、
麻布で道に迷っていた目の不自由な雲水に声をかけた。
この事がきっかけとなり
雲水の師である村上光照老師と出遭う。
老師は生涯、常住する寺を持たない出家である。
いつも墨染の作務衣で素足に草履、
登山用リュックを背負い、
求め求められるままに全国を行脚していた。
袈裟(けさ)や衣(ころも)、
釜や玄米まで入ったリュックは、
ゆうに二〇キロを超す。
それもその筈、
名古屋大学でのクラブは山岳部、
剛力のアルバイトで学費の足しにしていたと言う。
「どこに行っても、そこが道場。
行ったところ行ったところで、みんなありがたいんですわ」。
平成七年からドイツでの夏の接心(坐禅修行)に
指導者として招かれるようになり、
欧州の弟子も多かった。
それを聞いた氏は、
ドイツから弟子が来てもいいようにと、
静岡県川根の小猿郷に修行道場を提供した。
それにも拘わらず、老師は全国への行脚を続けた。
私は現役時代に氏から声をかけて戴き、
老師が定宿としていた船員会館
(安くて自炊ができ、何よりも坐禅をできる畳部屋があった)にお訪ねしたことがある。
名前に「禅」がつく私への誡めでもあったろうか、
何事も拒まないという和顔の目の奥が実に厳しい。
独り身で、肉や魚を一切口にされず、
玄米と大根葉の食事のせいか、
老師には蚊がよってこなかったと言う。
確かに、臭いというより木々のもつ匂いかもしれない
『論語』の「朝(あした)に道を聞けば、
夕(ゆうべ)に死すとも可なり」(里仁篇)を
道元禅師は「朝(あした)に成道(じょうどう)して
夕(ゆふべ)に涅槃(ねはん)する諸仏(しょぶつ)、
いまだ功徳(くどく)かけたりといはず」(『正法眼蔵』仏教より)
と言い換えて表現された。
成道は菩提(ぼだい)・道を聞くの意味であり、
涅槃(ねはん)は寂滅・死である。
村上光照老師は「朝聞夕死」そのものであった。