いまでもまだ、どうしてもとらわれしまう『数字』。摂食障害という病
人間社会から、遠く離れてしまったいまの自分
暑いのか、寒いのか、。
いまは何月なのか。季節は。
そんなことさえ、すぐに頭には出てこなくて。
一生懸命考えて、
それでもわからない時は、スマホ、電源押す。
そしたら、月、日、曜日、時間がわかる。
でもまた、しばらくすると、
「あれ。」って、そんな日々。
社会から脱落して、引きこもるってこういうこと。
やっぱりまだ、とらわれてしまう『数字』。摂食障害という病
まだ全然治ってない、なにも進歩していないことは
もちろん自覚していた。
最初の方に投稿した記事。
じぶんは、高校一年生の時に、
ほんの些細なことをきっかけに
「摂食障害」=「神経性無食欲症」を発症した。
たいしたことは書いてないけれど、もし
お読みくださる方は、ここに載せておきます。
この時からもう約10年以上、程度や症状、体調の波はあるけれど、一日たりとも自分から離れない、
すごくやっかいな、病。
いろんな波、大きな波、小さな波、小康状態の時もあったかな。
休職して、しばらくして、
最近は、その『数字』は減り続けることはないけれど、大きく増えることもなく、
自分が決めた許容範囲内 におさまっていた。
だけど、最近、少しずつ上昇傾向にあることはわかっていて、ずっと気になっていた。
まだなんとか、明日減ればOK。
まだこの範囲なら、また減れば大丈夫。
そんな毎日を過ごしていた。
それが10年以上、当たり前のことだった。
「自分が決めた許容範囲を超えた自分は許せない」自分。『数字』が全て。
だけど今日、ついに限界をこえた。
自分の許容範囲を超えてしまった。
こうなると、何もかもが許せなくなる。
『数字』=(体重)が増える、ということは、
その分、自分がダメになった証拠。
自分の我慢が足りなかった証拠。
自分の価値がなくなった証拠。
この期に及んで自分は何を気にしているんだ。
「自分が決めた許容範囲」が、適正でないことは
わかっている。
だけど、適正な数字の自分ではだめ。
なんともおかしな話だけど。
これが自分を苦しめる。
一番症状が激しかった時は、一口一口、
これを食べたらどのくらいのカロリーかな。
明日どのくらい体重増えるかな。
そんなことをずっと気にしていた。
最近は、このくらいなら
まぁそんなに増えないだろう。
と、前よりはざっくり考えられるようになっていたから、少しはマシになっているかと思っていた。
けど、違った。
ダメだった。
今日の『数字』を見た時、その瞬間、
自分が許せなくなって仕方なくなった。
こんな自分は生きている価値がない。
我慢、忍耐が足りない。
自分に対する激しい怒りと、今後の節制が頭を駆け巡った。
自分が、超節制モードに入ってしまったことに、
またあの地獄のような苦しみの日々が始まるのか。
と、つらく思う自分がいる。苦しめているのは他の誰でもない自分自身なのに。
言われると気になること。「痩せた?」「細いね」
久しぶりに会った人、初めて会う人、色々だけど。
最近は、初めて会うような人なんかいないけど。
「また痩せたんじゃない?」
会って、挨拶の次にはすぐそんなことを言われることが多い。
ということはつまり、人は、目の前の人の体型を
前回会った時と比較したり、世間一般と比較したり。
とにかく、「体型」に注目しているんだな、ということがよくわかる言葉。
自分はできるだけ体型を隠す服装をしているけど、
それでも、必ずといっていいほど、言われる。
その言葉は、
できる限り体型を隠しても、他人から見て「痩せた」「痩せている」ということを確認できる。
だけど、それ以上に、
「やっぱり人は、人の体型を気にしているんだ。
次会う時までにはもっと痩せないと。」
「今以上に太ったら、会わせる顔がない」
そんなふうに自分を誘導してしまう。
相手は、もちろん悪意などなく、心配のつもりで言葉にしているのだと思う。
だけど、「摂食障害」の自分にとっては、
そんなふうに変換されてしまう。
いつの日か。「おいしい」だけを感じて。
うつ病ももちろんだけど、
摂食障害。これは、とても厄介。
自分にとっては、うつ病以上に厄介に感じる。
『数字』や体型にとらわれることなく「生きる」
「ごはんを食べる」ことができる日は、いつか来るのだろうか。
何にも考えずに、目の前にある料理を
「おいしい」それだけ感じて食べられる日、
そんな日が来ることをぼんやり夢見ている。