なぜそこまで「生きること」🟰「いのち」だけにこだわるの
どうしてみんな「死んではいけない」というのだろう
なんとも不謹慎な題名、そして見出し。
お叱りを受けることと思います。
本当にごめんなさい。
だけど、今のわたしが疑問で仕方がないことの一つなのです。
『こんなにも生きることが苦しくてつらくてたまらない毎日。
それでも、この人生を生きなければいけないの。
それはなぜ。なんのため、誰のため。』
わたしは以前、何度か未遂を起こし、
じつに危機的状況も多くの方々の力によって救われて
『いま、ここに、生きています。』
救急救命医はもちろん、その名の通り、命を助けることこそが仕事であるために、
わたしが目を覚まし、無事であることを確認すると、よかったと言います。
(内心どう思っているかは分かりません、この大馬鹿者、とでも思われているだろうな、なんて思ったりします。)
一方で、望みが失敗に終わったわたしからしてみると、
実に身勝手極まりない考えで申し訳ないのですが、
正直。正直な事を言うと
「なんと余計なことを。自分のやっとの努力が全て無駄になったではないか。
あなたは自らの仕事を全うして満足かもしれないが、助けていただいてしまったわたしは、またより一層苦痛な日々を送るのか。
命だけ助けられて満足がられても困る。この後、残された人生を生きなければならないのは、他の誰でもなく、このわたし。」
(実に不謹慎、身勝手極まりない発言本当に申し訳ございません。)
そしてもちろん、身体的治療のみで自宅に帰ることができるわけもなく、
様々な形態で、いろいろな病院、病棟に入院しました。
医師をはじめとする多くの医療従事者、関係者と関わりました。
彼らが決まっていうこと。それは、
「自ら命を絶ってはいけない」
当たり前です。つらかったら死んでもいいよ、なんて、思ってたとしても、
立場上、言えたものではありません。
道徳的に、一般常識的に、多くの人が頭ではわかっていることだと思います。自分も「命の大切さ」わかります。わかっているつもりです。
それでも、そんなごくごく当たり前のことをわかっていても、
あまりのつらさや苦しみ、あるいは様々な理由で、
生きることに耐えきれずに、自ら命を絶ってしまう人が、日々いるのです。
わたしの体験談に戻ります。
例えばある病院で、入院中初回の診察時、担当医から
「今回自分がしたことについてどう思っていますか」と問われました。
わたしは正直、
「助けてほしくなかった。死にたかった。だから今は最悪だ。」
と心の中で思いつつも、一刻も早くあの地獄のような環境から逃げ出したかったわたしは、思いつく模範解答として、
「本当にいけない事をしてしまったと思っています。二度としないように気持ちを改めます」と、心にもないことを言いました。
医師は、「そうだよね」と、実に簡単な返事をし、
その後の入院期間中は、精神状態の確認とともに、
『二度とこのようなことはしないこと』という、
わたしからしてみると、なんの意味のない約束を交わし、
地獄の病棟から脱出したのです。
あの地獄の空間と扱い、そしてその地獄の期間に、
なんの意味があったのだろう、と今でも思います。
つまり、カルテ上どう記録されているか分からないけれど、
わたしの中では、約4年前の当時から、何一つ変わることのない
「希死念慮」を持ち続けているのです。
『こんなにも生きることが苦しいのに、死んではいけないのはなんでですか』
こんなこと、恐ろしくて誰にもきけません。
専門職ならなおのこと。
また、「危険だ」などと勝手に判断され、
今度はどんなところに放り込まれ、どんな扱いを受けるのだろうと思うと、聞けるわけがないのです。
希死念慮にどっぷり浸りっぱなしのわたしは、捻くれまくって屁理屈ばかり
希死念慮を持っている人に対してNGと言われている発言は多くあります。
しかし、そんなことを知っている人はごくわずか。
それを知らず、いかにも正論かのように自論を雄弁と語り、満足している人が依然として多いこの国の大人たち。
それはさておき。
「あなたがいなくなったら悲しむ人がたくさんいる、自分も悲しい。」
という、一見ありがたいお言葉。
本音か建前かはさておき、このようなことを言う人もいます。
自分が逆の立場だったとしても、足りない頭を振り絞って、
結果同じようなことを言うかもしれません。
そして、言ってくれている人の気持ちもわからなくもない。
こんなわたしのくだらない話に付き合ってくれてありがとう、とも思います。
だけど、すでに『捻くれまくって希死念慮満点のわたし』が受け取ると、
全て捻くれて、あらゆる屁理屈が思い浮かんでしまいます。
「他人が悲しまないために自分は生きているわけじゃない。そんな余裕はない。だいいち、悲しむ人なんてごくわずか。時間と共に忘れるから。」
などと心の中で思ったりするのです。
(もちろん実際には言いません。)
そして、「つらいことからは逃げてもいい」
「あなたが一番だいじ」 という言葉
辛いことから逃げてもいいと言うくせに、
「このつらい人生から逃げることは許されないのね」
「あなたがだいじ」の『あなた』は、
『いのち』だけ?命さえあって、生きていれば、
心の中がどんなに苦しかろうと辛かろうと、どうでもいいの?
と、こんな始末です。
自分でも、実に厄介、めんどくさくてこんな人間と関わりたくない。
好きにしてちょうだい。
なんて思います。
だけど。
どうしても思ってしまうのです。
今や関わりがあるのは、「リョウシン」と主治医、のみ。
両親ともに、わたしの苦しい気持ちや、うつ病ということすら
いまだに認めたくないようで、
そのような話はまっぴらごめん。
「しにたい」などと言おうものなら、
鼻で笑って、冗談言うな、ふざけたことばっかり言うんじゃない、と聞く耳を持たない父。
そして
「ふざけたこと言うんじゃない、産んで育ててきた親に向かってなんてことを言う、これ以上親を苦しめるな。」と怒鳴ってキレる母。
だから、もう、誰に言うのもやめました。
(と言いつつここにがっつり書いてますけど‥。)
自分の心の中は置き去りにされ、(誰にも言えなかったがために)
というか、どこかに置いてきてしまった。
誰も話せる人がいない、聞いてくれるひとがいない。
一方で、心の中を知らないが故なのか、
生きることだけを強要される。
そんなことを強要する彼らは、本当にわたしのことが大切なのだろうか。
「こんなに生きることがつらいのに、それでも生きなければいけないのはなぜ。そして、大切なのは、わたしのいのちだけなの。どんなにつらくても、心の中はどうでもいいの。生きてさえいれば、それでいい、そのためにわたしは生きるの。それってなんのため、誰のため」
という、ある人からしてみれば
実にくだらない、屁理屈の塊のような疑問です。
しかし、自らあみだしてしまった、そんなくだらない疑問を常に抱え、
いまだに、何も手掛かりをつかめずにいる。
そんな、きょうのわたし、でした。
この悩みはきっと、最期の最期まで続くでしょう。
そんなことにならないといいのですが。
to be continued…
終わりに。
今回は、今回も、非常に不謹慎極まりない発言の数々、
大変申し訳ございません。
ご不快な思いをされた方もいらしゃると思います。
自分なりになんとか抑えた表現のつもりですが、
至らない点が多くあると思います。
お叱りを受けるような内容も多数あると思います。(絶対あります。)
書こうかどうか、とても迷ったけれど、
自分に嘘はつけない。
なんとか表現を和らげて(どこがだよ。)
記載したつもりです。
ご理解いただけたら幸いです。
今後とも、この世に生きている限りは(その一言が余計なのさ。)
どうぞよろしくお願いいたします。
また更新したら、ぜひ覗きにきてください。
長文お付き合いありがとうございました。🌻🧸