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誰かに聞いてほしくて、「ねぇねぇ聞いて」で始めたnote。だけど、noteにも書けないことはやっぱりある。

いろいろある。
日々いろいろ。当たり前。みんなそう。
思ってること、考えてること悩んでること、なんてことないこと、
誰かに聞いてほしいこと、みんな色々あると思う。

じぶんはどうせひとり。って強がっても、
やっぱり、正直、誰かに聞いてほしい、って思うことがじぶんはある。たくさんある。

休職してから、当たり前だけど人と話す機会がガクンと減った。
無気力だったり、もらった連絡にどう返事をしたらいいかわからなかったり、人と会うのも億劫になったり…。
こんなどうしようもない自分の存在を消したいと思ったこともあった。
同年代の友人が結婚や出産など、どんどん大人になっていく。
人と比較しても何にもならないのに。
そこにいいも悪いもないのに。
だけど。
こんなどうしようもないじぶん。
消えてしまいたいと思ったことが何度もあった。

そんなこんなで、いまは基本引きこもり。
お友達、優しい友達たくさんいたけど、
いま、連絡を取り合う人はいない。

家族には我慢できずに伝えてしまうこと、
やっぱり自分の親だから、と期待して
聞いてほしいと思うことを伝えたこともあった。
けど、その期待はことごとく打ちのめされ、
いい加減やめた。

主治医には診察の時に、
前回からの経過を限られた時間の中で伝える。最低限。

こんな感じの日々を長く過ごしていた。
頭の中はいろんなことでたくさんだった。
だけど、伝える、聞いてくれる、聞いてほしいと思える人がいなくて、
ただただ、頭の中に蓄積していくだけだった。

あるとき、
伝える相手はいないけど、
とりあえず頭の中にあるもやもやしたもの、
噴出しそうになって、
自分のどうしようもない人生と、幼い頃から「自分のこと」を
伝えることが苦手だった自分、当時を思い出してあの時はこう思っていた、って人生の振り返りみたいなことも兼ねて
紙のノートに手書きで書いていた。

それはそれで、たのしい…とまでは思わなかったけど、
自分でペン持って紙に字を書くことが久しぶりで、
ただ単に「紙に自分の字を書くこと」に懐かしさと、
なんだかよくわからない「魅力」みたいなものも感じた。
可視化することで、「自分の字」で書くことで、
より、自分はこんなふうに思っていたのかな、って気づくことも多かった。
ノートに書くことで、誰も見ない一人の世界だけど、
ほんの少し、吐き出せたような、そんなふうにも感じた。

だけど。
やっぱり一人は一人。
どうしても、「ねぇねぇ聞いて」って思ってしまう、
だけど聞いてくれる誰かがいなくて、悲しくて、
ノートに書く気にもなれず、白紙のノートの前で
ひとり泣き続けたこともあった。

そんな時、出会った、この「note」。
今までにない、この空間に最初は少し戸惑った。
だけど。
思い返すと、一番初めの投稿…。
あれは本当にどうしようもない現実、持って行き場のない自分気持ち、
抑えきれずに溢れ返って、思いのままにひたすら書いた。
「ねぇねぇ誰か聞いて」  これが、つむの「note」の始まり。

初めはひとりぼっち。ひとりぼっちのつぶやき。ひとりごと。
だけど、いつしか多くの方に読んでもらえたり、
自分の気持ちに共感して、あたたかい言葉をかけてくれたりする人に出会えることも増えた。

ひとりでは抱えきれなくて、自分の思い、正直な気持ちををつぶやきたい。
そう思って投稿していた。している。

だけど。
「note」 は紙のノートと違って、誰もが見ることができるもの。
自分の正直な気持ち、思い、悲しい悔しい出来事、そこから感じたこと、
率直な感情、考え、書きたいことはたくさんある。

でも、そんな内容、自分からすると、理不尽、悲しい、そして「怒り」
のようなこと。
それは、個人名や具体名などを出さずとも、
読んだ誰かを傷つけるかもしれない。

誰もが賛同する記事などとても書けない。それは不可能。
だけど、自分の率直な思い、であっても
どんなに言葉を選んでも、
「note」には書けない内容、
率直な思いでも、そんな「言葉」「表現」はできない。
ということもたくさんある。
(自分なりの線引きだけど)

そんなことこそが、実は、どうしても誰かに聞いてほしくて
ひとりで抱えているのがつらくてたまらない。
そんなことだったりする。
そんなことは、やっぱりひとりで抱えているしかないのが
いまのつむ。

いろいろ
むずかしいな、って思った。
「note」好きだけど。
続けたい。

だけど、
なんでも書ける、書いていい、
「紙のノート」とはやっぱりちがうんだな。
って、思った。














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