見出し画像

『こんな人生もう終わりがいい』そんなわたしが『note』を書く理由

本日も安定、底抜けに無気力な自分です。
この人生はいつまで続くの…。考えても仕方ない、誰も教えてくれないし、そう簡単なことではないから。
でも頭の片隅から絶対に、頑として離れない、実に厄介です。

なにもやる気がしない…あれもこれもやらなければいけないことはたくさんあるはずだけど、どれひとつ手がつかず、あとどのくらい放置するつもりなのだろう…と思いながらnoteを書いています。
そして、今日のテーマは、
題名に書いてあるとおり、笑。
こんな自分が、noteを書こうと思い、今現在はなんとか書き続けている理由についてです
過去に自分が『note』を始めた理由について記載したものがあります。
多少、いや、かなり内容が重なるかと思いますが、ご了承ください。🙇

もし、ご興味があられる方は、よろしければ
こちらもご覧ください。

自分で読み返してみると、大体のこともう書いてあるやん!
と言いたくなったのですが、
今回は、補足、ということでお許しください。


「ひとりぼっち」のわたし

日々悶々と色々なことを、ひとり頭の中でぐるぐると考える毎日。
頭を巡る内容は実にさまざまです。
日常生活で起きたちょっとしたこと、それについて思ったこと、
読書、音楽などの共有…
今の自分の気持ち、
そして、ふと過去のあんなことやこんなことが頭の中を占領し、どうにもならず、誰かに聞いてほしいこと、など。
しかし、社会から完全孤立し、引きこもりの私に話し相手は、いません。(正確には、最低限のやり取りをする親と、主治医の診察。のみ!)
おそらく以前もどこかに書いたと思いますが、過去に私に差し伸べられていたあらゆる優しさの綱を自らぶった斬ったのですから、自ら連絡しない限りは、おそらく一生このままでしょう。
しかし、今はおそらく、自ら友人に声をかけられる時期ではないと自分では思っています。それほどまでに回復していない、もう少し上向きになったら、と思っています。

話は随分脱線してしまいましたが、
こんなにも「人生、はよ終われ」と願い続けている自分が、
noteを書く理由。それは、いくつかあり、またそれらは時に相反する、実に複雑なものだと思います。
以下に理由を述べます。

①やっぱり誰かに聞いてほしい、知ってほしい

好きで引きこもりになったわけではないと、自分では思っているのですが、
気づいたらかんぜんなる『ひとりぼっち』になり、連絡を取り合い、なんでもないことを気兼ねなく話せる人、友人が、一人としていなくなりました。
ほんとにほんとの、「ひとりぼっち」、「孤独」。
それが居心地がいい時、全く気にならない、友人知人のことを気にする余裕などない、という時もあります。また、自分を気にかけてくれる友人たちの連絡、通知が苦痛でたまらないこともしばしば。そして友人たちの幸せLIFEを素直に喜べない、という時ももちろん往々にしてあります。

そのくせ、実に身勝手わがまま極まりない!と自分でも思うのですが、
ちょっと寂しくなって誰かとなんでもない話をしたい、
「ねぇねぇきいて」と思うようなことも、時にあるのです。

(以下過去の内容と重複します。)
初めは、紙のノートにひたすら書いていました。
完全「ひとりごと」。
これだけでも、心の中だけに溜め込むよりは、書き出して、心の中から出すことだけでも、少しは?少しよりもうちょっと?いい効果はあったように思います。
心?脳?のなかは、書いているうちに少しずつ整理されたり、自分を客観視できるようになるなど、自分なりによかったと思える事はありました。
そして何よりも「手書き」が好きな自分は、自分の手で、紙に字を書く、という行為で、「無心」になる事ができている、と思うのです。
だから、今でも続けています。

しかし!なにせ、「ノート」の中でひっそりと、誰の目に触れることもない。
やっぱり、いつの日か、誰かにきいてほしい時が、きいてほしいことが、
出てきてしまうのです。
人間だからなのか。自分も、やっぱり人とのつながりをどこかで求めていたのだと思います。
だがしかし。連絡先を探せど探せど、メッセージを送れそうな人は見つからず(みんな仕事で忙しいだろうな、こんな話聞きたくないよな、今の自分の状況知らないよねこの人、などなど。)😔。そんなことを考えて結局ひとり、
しょぼん(´・_・`)」となるのです。
そんな時に知った、この、『note』というアプリ?サイト?
ひとりで完結するよりかは、誰かが見てくれるかもしれない、
その一心で最初の記事を書きました。
まさに、自分が最初に書いた記事。
あれは、どうしても自分一人で抱え切れるものではなく、
だけどあの感情の矛先はどこを向いたら良いか分からず、半ば頭が沸騰していた私は「ノート」に書き殴るだけではどうにも気持ちが収まらず、
どうしても、誰かに聞いてほしかった、知ってほしい、
その一心でひたすらに書いたものでした。

それがこれです。
読み返せばただの愚痴、文句。(´・_・`)
でも、多分書いていた時の自分は必死だったのだと思います。

つまり。
やっぱり、誰かと繋がりたい、聞いてもらいたい。
そして、ネット上に書けばさまざまなご意見があるでしょうから、
目を伏せたくなるようなこともあろうかと思いますが、「承認欲求」。
これまた嘘はつけず、自分はしっかりこれも求めていたのだと思います。
これが手書き好きの自分が、わざわざ『note』を書いている理由の一つです。

②これまでの人生を振り返って、今だから言語化できる事がある。そして、知ってほしい人がいる。

これも結局は①につながるのかもしれませんが、あえて記載します。
自分はこれまで、さまざまな、「さまざま」な人生経験をしてきたように思います。
人生の経験というのは、実にさまざまで、他人と比べられるものだはないし、比べるものでもない、と思っています。
そして、誰しもが、普段おもてからは見えない、様々な苦悩や過去、事情を抱えながら生活していると思うのです。
だから、誰と比べるわけではないけれど、
自分は、過去を振り返ってみて、そして今もなお、
『自分にとっては苦悩の連続、そして苦しみもがきながら今この瞬間まで生きてきた』、と思っています。

自分の年齢的な幼さや、言葉のつたなさ表現力の乏しさもあったでしょう。
そして何より、苦しみの渦中、その状況を客観的に分析して言語化し、大人に伝える、などという事はとてもできませんでした。
いま振り返ってみて、やっと、状況を客観的に把握する事ができる。
そして、
その時の自分の考えや思いを、より分かりやすい言葉を用いて表現する事ができる。
だから、今書く。
そして、その内容を当時の人々に伝えるか否かは悩むところではあります。関係性などにもよるでしょうが、伝えたところで過去は変わらない、
そして内容上、おおかた、良い方向には向かわないだろうと思うので、
空に放つように、ここにひたすら書くのです。
当事者に伝わらなくとも、この世の誰かに、
こんな気持ちの自分が過去にいたんだ、と知ってもらえたらいいな、と願っています。

③やっぱりいつかは知ってほしい、「誰か」がいる

これは②と矛盾します。
こんなことは本来あるべきではないと思っていますが、
希死念慮」に取り憑かれている自分は、常に「生と死」に挟まれ、
思い悩み、心が揺れ動いています。
それでもなんとか、どうにか、気を紛らわし、ひたすらに泣きながら耐え、
いまを生きています。
でも、もしも。もしも自分がこの世を去ったら。
そののちに、どのような形になるかは分からないけれど、
ここに自分が必死に書いたことが、
その「知ってほしい、誰か」にも届いたらいいな、と思いながら書いています。

④自分が生きていた、という証

引きこもりで、いまや誰にも存在を知られていない自分。
消息不明、というやつでしょうか。
そんな自分が、生きて、考えてきたこと
自分が生きた痕跡」としてどこかに残したい。
つまり、ここのRinsai🌻のページが『自分が生きた証』になってほしい。
でないと、自分は本当にいなかったことになってしまう、とも思うのです。
これが、今のところ思い浮かぶ、最大の理由です。

まとめ

以上、大きく4つの理由。
気力も体力もなく、希死念慮と格闘し、頭もろくに回らない日々。
そんな中、上記内容が、今のところ、人生から逃げ出したいと思いつつも
『note』を書いている、書こうと思っている理由です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?